「仲達、いるか。」
「いなければ返事のしようがありませんが、何でしょう。」
不機嫌さを露程も隠さずに、司馬懿は部屋の中から返事をした。
ここは宮廷の書庫だ。司馬懿は朝からそこに詰めている。何しろ仕事は山のようにあって、しかもその山は、高くなる事はあっても低くなる事はない。軍師としての特性か、それとも個人的な性格故かは判然としないが、仕事は嫌いだが完璧主義者である司馬懿は、とかく自分で物事を片付けたがる。よって、削る3倍位の速度で、山はどんどん積み上げられていくのだった。
そんな司馬懿の状況を、全く顧みる事なく声を掛けてくる『王子様』に、司馬懿が愛想のよい返事を返せる訳がない。扉の外から尊大な声を発する曹丕も曹丕だが、嫡男相手にこの態度を取る司馬懿も司馬懿だ。もっとも、近親憎悪、という言葉を二人は絶対に認めたがらないのであるが。
「仕事中か。」
「仕事でなければ、こんな所におりません。」
扉越しの、奇妙な会話が続く。司馬懿が扉を開けない事にも、腹を立てた様子でないのは温厚だからではない。曹丕は己の思うが侭に振る舞う男だから、別に司馬懿の行動に頓着しないだけだ。
曹丕に見えない事を良い事に、ちっとしたうちした司馬懿だったが、その瞬間、扉が無遠慮に開いた。
「仕事は終いだ、来い。」
当然扉を開いたのは曹丕で、彼はいきなり司馬懿の腕を引っ張りあげた。墨がたっぷりついた筆が転がりそうになるのを、司馬懿は何とか机に置き戻す。当然、悪態をつくのも忘れない。
「私は仕事中だと言っているでしょうがっ!判らないのか、馬鹿め!」
「終いだと言った。」
「馬鹿王子が!私にはまだ、」
仕事が、と言いかけた時に、曹丕がいつもの声で言い放つ。
「この私が、な。」
「楽しいか、仲達。」
「はぁ・・・・・・いえ、あの・・・・・・・・。」
『命令』にとってかわった曹丕の言葉に、抵抗する気力も失せた司馬懿は、黙って曹丕の後に従った。曹丕は司馬懿の腕を掴み、ずんずんと奥へ進んでいった。何処へ行くのかと訝しがっていた司馬懿だが、ついた先は曹丕の私室。
何だこれは、どういう展開なのだ。訳がわからないでいる司馬懿の前に置かれたのは、たくさんの碁石だった。開始されたのは、いわゆるおはじき。この単純な遊戯を、殊更曹丕が好んでいる事位司馬懿は知っていた。しかし何故真昼間、しかも職務の最中に、こんな事に付き合わされているのか司馬懿には皆目検討もつかないままだ。
「そうか、楽しいか。それは良かった。・・・お前の番だ。」
「はぁ・・・。」
司馬懿は曹丕の顔を伺い見るが、口元に浮かんだ僅かな笑みの意味が分からない。愚者の考える事など読み切れんわ、と心の中でぼやこうとしたが、この奇妙な事態に対する読解の方に気が回る。何故こんな忙しい時期に、互いに多忙の身でありながら、嫡子の部屋で遊戯に興じているのだ。
問えば早い話なのだが、何か裏がありそうな気がして口にだすのは躊躇われた。内心の深謀には似つかわしくない、傍から見れば十二分に暖かくほのぼのした空気が満ちている。傍から見れば。
「休憩だ、仲達。」
「自分が負けそうになったからと言って逃げるのか、馬鹿め!」
かれこれ一刻。夢中になっていたのは司馬懿の方だ。基本的に負けず嫌いなのは二人とも同じだが、熱くなる(正確には『熱くなったのが傍から見ていてわかる』、だが)のは司馬懿である。
そんな司馬懿の喚きに、わざとらしく曹丕は溜息をついた。
「休憩だと言っているだけだ。誰が逃げるか。」
まるで子供に言い聞かせるように言い置いて、曹丕は手を打った。
侍女が間髪入れずに運んできた物。それはよく冷やされた葡萄だった。いわずと知れた曹丕の好物である。
「お一人で食されるとはいい根性しておられますな、馬鹿王子。せめて客人にお茶でも出して下さいませんか。」
「誰が一人で食べると言った。」
「あなたのいつもの行動を見ていれば分りますよ。」
随分な言い草だな、と思いながらも、黙って曹丕はかごを司馬懿の方に押しやった。しかし司馬懿は素直でもなければ、曹丕に優しくされる事に慣れている訳でもない。
「剥け、という事ですか。そういうのは侍女にやらせなさいませ。」
「別に剥かずに食べるというのなら止めはしないが。」
「・・・・・・・・?」
「全部、お前の分だ。」
おかしい。
司馬懿はそう思った。好物とあらば人の物まで掻っ攫うこの王子が、一番のお気に入りを、しかも全部渡す筈がないのだ。しかも他ならぬ自分に。司馬懿は曹丕の顔をうかがうが、相変わらず鉄面皮のようなその表情からは、読み取れる事があまりに少ない。
「毒でも入っているのですか。」
「やるのならば、ばれない方法でやる。そうでなくとも、命令一つ下せば済む事だ。食べないのか。」
しれっとした顔で言ってのける曹丕に、成る程道理だ、と司馬懿は思った。
「・・・死んだら化けて出ますから。」
「好きにしろ。」
葡萄の一粒を、ぱくりと司馬懿は口に含んだ。
その晩、司馬懿は別に胃痛に苦しむ事もなければ血を吐く事もなかった。涼やかに衣替えされた臥牀にごろごろと横たわり、曹丕の『奇行』の理由を考える余裕さえあった。あの後さすがにおはじきに飽きた司馬懿が碁への転換を提案し、曹丕はそれを受け入れた。軍師らしく、こちらの勝者も司馬懿だったが曹丕が機嫌を損ねた様子もなかった。
かなり豪華な夕餉を一緒に取り、何を思ったか曹丕は司馬懿の邸まで彼を送っていった。何故ですかと問うても、別に、とだけしか返さない王子に訝しがりながらも、とにもかくにも彼らは別れた。
本当に、何だったのだ?
その疑問だけが宙に浮き、司馬懿は久し振りに頭を抱えていた。
「素直に仰ればいいものを。」
「・・・見ておられたか。」
失策だったな、とちっと曹丕は舌を弾く。司馬懿を送って、厩舎に戻ってきた彼を見つけ声を掛けてきたのは曹仁だった。
曹丕はいまいちこの年長の親戚に頭が上がらない。他の者と違い、悪気もなければ邪推もしない、極めてまっとうな『常識人』だからだ。苛烈かつ非常識な面々に囲まれて生きてきた曹丕にとって、真面目で善良な人間の思考は理解しにくい。よって扱いにくく、どうにも勝てる気がしないのである。
「軍師故頭は切れるが・・・こういう事には鈍いと思うのだが。自分も、人の事は言えぬが。」
「別にいいのだ。気付かなければそれでも。」
拗ねたように聞こえたであろう事が恥ずかしくて、曹丕は早々に逃げ出す事に決めたようだ。馬を馬丁に押し付け、早足で厩舎を後にした。
後に残されたのは、曹仁一人。申し訳なかった、と逆に自分を責めてしまうのが曹仁が『良識人』である所以であり、また曹丕を立ち去らせてしまう理由でもある。
「・・・・・・・彼の人も、かなり鈍いと思わぬか?」
曹丕の愛馬に声を掛ければ、同意するように馬もひひんと鳴いた。
今日は、司馬懿が曹丕の側について三年目の記念日だったのである。
貴サイト様3周年おめでとうございます!嫌がらせと判別がつき難い気もしますが、お祝いに拙文を贈らせて頂きます。丕司馬丕を目指したんですが、ただの曹丕+司馬懿になってしまいました。何たる事!!せめて伏線張れよという感じもしますが、よろしければお受け取り下さいませ・・・!
末尾になりましたが、貴サイト様のこれから益々の御繁栄お祈り申し上げております。3周年、誠におめでとうございます!