ここでキスして。 |
深く深く乙女の溜め息を吐いたのは、女性ながら敏腕、有能な曹丕の側近、司馬懿である。悩ましげに卓に頬杖を突いて艶やかな髪を指に絡ませている姿はなんとも叙情的で、それはまるで恋する乙女と例えたとしても間違いではない。事実、彼女は恋をしていた。 さて、悩める乙女の司馬懿がそのように甘く息を吐いているのは他でもない、恋人との事だ。つい最近思いが通じ合ったばかりなのだが、相手はというと彼女の主である曹丕。すなわち、仕えている魏国の太子。 好きになってはいけないと思ってはいたが、好きになってしまい、彼もまた、彼女を愛していると言ってくれたのだ。嬉しい反面、戯れではないかと懸念する自分が居て、猜疑心の強さに自分自身呆れてしまう。 (惚れた相手を疑うなど賢くはない、か) またひとつ。深く長い溜め息を吐く。 司馬懿が思い悩んでいるのはそれだけではなかった。 自分の唇にそっと指先で触れてみる。柔らかく程よい弾力、ついとなぞると背筋がぞくりとした。 一度だけ、触れただけの口吻をした。その時の感覚が忘れられないのだ。そんな自分が浅ましくてこれまた悩んでいるのだ。 鋭利な視線が柔らかいものへと変わり、優しく優しく唇を合わせた。儚く甘美な口吻。思い出して、胸が奮えた。その時の気持ちをいっそ詩にでも詠めればどれだけ傑作が出来上がっただろうか。自分の文学的才能のなさも情けなく思い、溜め息は増えていく一方であった。 さて、一方。有能な側近兼、晴れて恋人となった司馬懿の主である曹丕は傍目からではわからぬがひどくご機嫌であった。鼻歌でも歌いそうなほど機嫌はいいのだが、その眉間には常とかわらず数本の縦皺が寄せられており、その様子を大尉である陳羣は内政の状況を述べる書簡を差し出すかどうか悩みながら見つめていた。 触らぬ神に祟りなしというではないか。しかし、執務は執務。執り行って貰わねばならない。意を決して、声をかけようとした。 「陳羣」 前触れなく名を呼ばれ、陳羣は声を失う。声をかけようと思った矢先に先を越されては気まずくて挙動不審となってしまう。そんな陳羣を他所に、落ち着き払った声で曹丕はつぶやく。 「恋とはいいものだな」 唐突すぎて言質を問いただしたいほどである。主人の言葉数の少なさはわかりきってはいたことだが、こうも読めぬとあっては仕事をするにも捗らないというもの。いつもなら司馬懿が控えており、馬の合うふたりがそろって曹丕の才もいかんなく発揮でき、内政はつねに安泰なのだがその司馬懿が今日は見当たらない。さしあたって、先の曹丕の不可解な発言にどう答えればいいのやらと考えあぐねていたところ、曹丕はすっと席を立ち、陳羣を素通りする。 「仲達のところへ参る。書簡はそこにでも置いておけ」 「は、はい…!」 さっと拱手し、顔を上げればすでに曹丕の姿はそこにはなかった。陳羣は書簡を机に置くと、ひとつ。溜め息をつくのであった。 * 陳羣が溜め息をついたのと同じ頃、司馬懿は今日何度目かわからぬほどの溜め息をついていた。そろそろ仕事に戻らねば、と卓に広がる兵站に関する書きかけの書簡を見る。しかし手がつかない。 (こうなってしまったのも、曹丕様のせいだ…) 責任転嫁というものだとわかっている。けれどもせずにはいられない。恋などしなければこのように思い悩むこともなかったのに! そうしてまた、自身の唇にそっと触れるのであった。このような感触ではなかった。もっと、柔らかく、温かで、じわりとした…。 「それは誘っていると受け取っていいのか?」 はっと振り向けば実に機嫌のよさそうな(傍目からは機嫌が悪そうな)曹丕が立っていた。歩み寄り、司馬懿をさっと抱きしめると唇が触れるか触れないかの距離まで顔を近づける。司馬懿としては、口づけのことを思い出して、また考えていたところであったので居た堪れない。 顔が近い。唇も近い。睫の生え方までわかってしまう距離。鼻先があたる。息が触れる。でも唇は触れない。心臓は今にも飛び出そうなほど激しく鼓動して、小さな胸がばくばくと動いている。その様を悟られぬよう、努めて冷静に振舞おうとするかわいげのない自分。それすらも見透かされているとは当に気がついているのだけれども。 「口を吸ってもかまわぬか…?」 低く囁かれる。距離がないため、その息は唇を何度も滑る。 (このお方は・・・!) 頬に熱が集まるのがわかる。この人の前ではどうも自分は自分でいられなくなるらしい。 「お聞きにならずとも、私は貴方のものなのですから好きになさればいいでしょう?」 「仲達が嫌がればしたくない」 「…。曹丕様…」 「子桓と呼べ」 「…。子桓様…」 よろしゅうございますよ、と。主に許しを与える側近なんていないだろうと呆れてしまう。その心を読んだかのように、曹丕はクスリと笑った。 「今の私とお前は主従ではないのだからよかろう?」 「左様で…」 馬鹿だ。この方は馬鹿である。そして自分も相当の馬鹿である。 唇が触れ、何度も啄ばまれる。初めて触れ合ったときよりも長くて優しい口づけ。気持ちのいいもので、司馬懿も曹丕の唇をそっと啄ばむのであった。呼気が触れる。柔らかな唇が触れる。頭がぼんやりとする。やはり甘美なものである。 今はまだ、口づけだけで満足できてしまう、そんな二人の恋は始まったばかり。 A Captive of Love (恋のとりこ!) 「海彼」の海石様に捧ぐ…! 遅くなりましたが相互ありがとうございました! 「初々しい頃の丕♀司馬」でしたが相互リクにそれていたでしょうか…? 裏要素皆無ですので表に置かせていただきましたー^^ このようなものでよろしければお納めください! 08.11/5 千鳥 |