流れに身を任せていた花を掬う。 落花流水、我が釣り人が彼(か)の様になればと思いながら。 夏の夜の夢 「それにしても、斯様な場所が近くにあろうとは思いもしなかった…」 「全くでございますな」 軍靴を脱ぎ捨てた足で水面に飛沫を上げながら、感嘆を滲ませて曹丕は呟いた。 司馬懿も感心げに応えたが、尺の目盛りを満月の光で見ながらのやや上の空に聞こえる声音であった。 その証拠に、川縁の岩に腰掛け、清流を観賞する曹丕を気にするでもなく、 頭にたたき込んだ地図に記されている川の深さを確かめる作業を延々と続けている。 無粋な、と曹丕は呟いた。 夏の望月は大気に霞み、柔らかな光を降らせている。 青白い光は水面を照らし、流れていく流水の陰と浮かび流されていく花片をはっきりと表していた。 上流から流れてきた花片の、恐らくは元であろう木々の香りもまた、風が運んで来たようで、 水の澄んだ香りと相俟って、何とも表せぬ心地にさせた。 だというのに司馬懿ときたら、折角の絶景には目も呉れずに黙々と作業に勤しんでいる。 唯一、それには風情の欠片を感じるモノはと言えば、司馬懿が官服を脱ぎ捨てた単衣の身を、珍しくも清流に浸していた位であろうか。 しかしそれも単に靴や衣服を濡らしたくはないだけであると知ってしまえば、風情とは程遠い。 無粋な部下に自然、溜め息が漏れた。 「…早速、飽きられましたかな? されば此方を手伝って頂きたいモノですが」 悪戯げに司馬懿が笑う。 曹丕が飽きたのではなく、自身の無粋に呆れているのだと知っていての事だ。 「生憎、この清流を壊す様な無粋さは持ち合わせておらぬ」 司馬懿が水深を調べているのは、戦で使えるか否かとただ確かめているだけであった。 山道を縫った先にあるこの場所は源流近くにあり、しかも下流で一度流れが地に潜っている為か、 現地民しか知らないと言う。 知っていたとしても至極厳しい山道の先にある場所である為、敵もまさか此方から来るとは思わないだろう。 将に敵の隙を突くには打ってつけと言えた。 曹丕が見ている限り、川の深さは深くても腰の半ばまであろうか。 だが流れは緩やかで、兵が支障なく渡河出来る水深である。 無理をさせて下流の深い水の中を行かせたり、大仰に船を使ったりするよりも兵の消耗を防げ、 また寡兵になろうが奇襲など戦法にも幅も増える。 司馬懿が誰にも知られぬ様、主君との逢い引きを出汁(だし)にして、わざわざ足を運んだ訳も解らぬでもない。 ……しかし、だ。 とは言っても曹丕には面白くない。 渡河すれば川底は踏み荒らされ、水は濁る。 折角の清らかな流れをむざむざと損なうなど、曹丕には好ましくなく思えたのである。 風流を語る覇者・曹操ならば或いは賛同して貰えるか、と一瞬思ったが、実質は現実に忠実な男である。 悲しむ素振りこそ見せようが、躊躇いもなく軍を進めるであろう。 そんな曹操に、実の息子よりも近い思考の男が司馬懿であった。 「道が道ゆえ、ごく僅かな伏兵しか行かせませぬ…川底もすぐに澄みましょう」 「…その様な問題ではない」 ただ曹操と決定的に違うのは、司馬懿は回りくどい素振りなど見せず、淡々と事を為すという事。 現に司馬懿は曹丕が憮然とした口調で返し、不興を露わにしたのに動じもせず、 頭の中で描く川の使い途に変更を加える様子もない。 曹丕とて分かってはいるのだ。 清流もいずれは澄み渡る。 しかし、人をあまり知らず踏み荒らされぬまま在るこの地を、穢される様な心地がするだけなのだ、と。 そう口にするには些か感傷的過ぎ、また軍を率いる者としては問題だと分かっていたから、 心底残念に思えても本気で止めさせようとは言えない。 「左様ですか」 憎らしい事に曹丕のその様な拘泥は手に取るように判っていたのだろう。 くすくすと笑った司馬懿は、あっさりと背を向けて、更に川の深みに足を進めていく。 白い項のすっと通った線が仄めいて美しく、やけに幻想的な月夜に似合いに見えたのが余計憎らしかった。 言葉を交わさなくなると、唐突に静寂が襲った。 ただ流水の立てる音と、男が銀と青に仄めく水面を乱して行く音だけが響く。 男は今、少し離れた浅瀬を歩いていた。 仕事は未だ片づかないらしい。 対して曹丕はあまりの手持ち無沙汰に男の一挙手一投足を見詰めていた。 男は普段、閨房で見る裸身とは違い、水に濡れた薄衣を纏い、体の線をまろく表れている。 骨ばった足首が流水に浸かり、男の肌を滑って流れていく。 流れていく花弁も、男に惹かれてか肌に寄り添うように絡みつくものの、男のつれなさを表す様にすぐに水中へ消えていった。 哀れな、と思わず呟いた。 その花弁の様が、つれない男に振り回される自分に重なり、愚かな、とまた呟く羽目になった。 曹丕の独り言に男は気づかないようだった。 細長い竿の端を肩に持たせかけ、浅瀬からまた深みへと視線を転じていた。 「…『嗚呼、路行く愛しい人よ 一体何を捧げれば、私のものになるのだろう?』」 つれない後姿に静けさを壊さぬ声で思わず詠いながら、哀れで愚かな花弁の仲間を一つ戯れに掬い、空に挙げた。 小さな石程度の丸い花弁は薄い桃の色をしていた。 艶やかな表面は清光に濡れ、妖艶な薄紫に変わり、眼を引いた。 ためつすがめつその花弁を見ていると、不意に水面がさざめいた。 見れば、男が作業を止め、曹丕のいる岩場へと歩いてくる。 すっかり水を吸った単衣は濡れそぼり、重たげに身に纏わりついていた。 仄かに光を発するのは衣が吸った水のせいもあろうか。 男の骨ばった体を包むように、清光が輪郭をまろく浮かび上がらせていた。 「曹丕殿は私に何を下さるのですか?」 曹丕の独り言を聞いていたのだろう。 行儀悪く岸に竿を放り投げて司馬懿が小首を傾げる。 「お前が望むなら何だって」 「それは心強い」 書物も地位も名誉も人の命でさえも、与えられるモノなら何でもくれてやる。 そう言うと、呵呵、と司馬懿は高く笑った。 戦場で見る高笑いとはまた違う、珍しく悪意も嫌みもない子供の笑い声に似た笑いで、曹丕の目を奪った。 「それでは子桓様を頂いても?」 「…何?」 「私は我が儘でございますから、全てを引き換えにする事になったとしても、私の側にいてくれる者が真に欲しいのです」 聞き返した曹丕に司馬懿は微笑んだ。 「無理でしょう? 貴方には尊い地位も愛しい妻も、偉大な父も、優秀な息子に兄弟、親族だっております。 加えて、貴方は立場という枷さえございますから…私など選ぶ訳がない」 「そのような事は」 「いいえ、無理です。 それは貴方が一番よく御存知の筈だ」 「……、」 無い、と続けようとした曹丕を男が否定する。 何も返せなくなった曹丕を見透かすように、真っ直ぐな眼差しが暫し向けられていたが、 一つ息を吐くと諦めたようにそっと逸らした。 穏やかな微笑はそのままに。 「……でも嘘だとしても、『そのような事はない』と仰ろうとして下さったのは嬉しいですよ」 「…慰めは良い」 「慰めなどでは決して有りません」 白絹の袖が空をゆらりと舞い、曹丕に伸ばされる。 万一にも爪先で傷つけない為にか、指の腹で頬を包むようにして司馬懿は口づけた。 すぐに離れると、またそっと微笑む。 「私は貴方のモノにはなれぬだけの事……曹丕殿をお慕いする心には嘘偽りはございませぬ」 …こういう事も含めて、と。冷えて色の失せた唇が珍しく甘い言葉を紡ぐ。 しかしそれでも己の主張を決して譲ろうとはしない。 つれなさを示すように頬に添えられていた手もすぐに遠のいてしまった。 「お慕いしております……それではご不満でしょうか?」 嗚呼、と曹丕の唇から呻く様な声が漏れた。 それを肯定と見做したらしい司馬懿が、何故か困った顔をしてまた笑んだ。 「…私に劣らず、欲張りな方だ」 曹丕が腕を掴んで、まだ距離のあった身体を引き寄せる。 長く水に晒されていた細身は酷く冷たい。 抱きしめようとすると、青白く仄めく繊手が押し留めてきた。 「…御身が」 司馬懿の身体はまだ濡れそぼっている。 加えて、清流のどこで付けて来たのか、ほんの少し泥で汚れていた。 曹丕の纏う白絹の衣と白銀の鎧を汚してはと、或いは暖かな腕を損なわないようにと思っているのか、 なかなか身体を預けようとしなかった。 「構わぬ」 「しかし、」 「この身がどうなろうとも、お前ならば構わぬのだ」 抗う手を捉え、濡れる甲に唇を落とす。 近頃執務に追われていたからであろう、紅い筆胼胝(たこ)が在る指にも口付けると、刹那怯んだように指先が跳ねた。 「……共に在る事さえ難しいというお前の心が私には判らぬ。 けれども、お前を失っても私は生きてはおれん…」 だから離してやれぬ、と。 そこまで囁くと男は一切の抵抗を止めた。 囚われた指先を僅かに握り返す所作さえ見せる。 「曹丕殿…」 切なげに司馬懿が呼ぶ。 応える様に腰に腕を回して引き寄せて漸く抱きしめた。 「懿…」 嗚呼、と今度は司馬懿が呻きを漏らす。 縋るような必死さで己を抱く年下の主に、哀れみの心を持ったのか、 後頭部でふわりと揺らぐ短髪をそっと…恐る恐るといった手つきで撫でた。 しかし指先だけで触れるような感じであったその手つきは徐々に大胆になり、しまいにはしっかりと包み込むように回されていた。 態度の変化に曹丕が側近の顔を覗きこんだ。 そこには曹丕への愛おしさを間違いなく滲ませながら、暗い陰が差した口端だけを上げた微笑があった。 「…お好きになさいませ」 冷えた唇がそっと呟き、再び曹丕に口づけた。 どうしてその様な顔をするのかと思っていると、唇が触れそうな位置でまた囁く。 「…その代わり、後悔なさいますな」 「…望む所だ」 「流石は我が君」 色良いことを紡がぬくせにしなだれかかる男の、帯を解いて冷たい背に触れる。 曹丕の暖かさと川面を走る涼風にそのしなやかな曲線が震えた。 「…誰かに任せれば良いものを。 曹魏の…否、父の命(めい)の為とは言え、そこまでする必要はなかろう」 思わず眉を顰めた曹丕に気づき、司馬懿が皺の寄る眉間に口づける。 その手は曹丕の首筋を辿り、衣の袷を乱しては暖かな肌を慰撫していた。 先ほどまでの遠慮が演技であったのかと訝しみたくなる程に、自ら濡れた身を摺り寄せ、快楽を引きずり出そうとしている。 「妬いているのですか?」 「面白くないだけだ」 「それを妬いていると言うのですよ」 我が君は可愛いですな、とくすくす笑う唇から小さく漏れた。 そこにはもう憂う表情はなく、期待に色付く眼が曹丕を見て緩やかに細められる。 「安心なさいませ。 誰の命でもありませんよ…偏に私の為ですから」 「お前のことだ。意味も無く調べたりはすまい…」 「…さて、どうでしょう?」 そんなことより、と。 指先で頬を撫でてきた司馬懿は、密やかな声で囁いた。 つい、と滑った指先が鎧の継ぎ目を探り、下から金具の外れる硬質な音が響く。 「…夏の夜は短うございますよ?」 甘く急かす声が清光と共に曹丕に降り注ぐ。 その些か急きすぎる司馬懿に何かを感じたが、再び蒸し返すには遅すぎ、路行く好者を手にした喜びもまた尊いものであった。 月下、名も知らぬ花が甘く香り、手中の華もまた甘く。 儚き夢のような、夏の夜であった。 終 - - - - - - - - - - - - - - 壱万リク、1つめ。『水浴び 5丕司馬ver.』にございます。 そう見えないけど5丕司馬です。 謀反前提です。(<伝わらないから) 当初はにょたとかちまいとか妄想してみましたが、『水浴び』というテーマから、 丕様の「釣竿(ちょうかん)」って詩が思い浮かんだことから何故か普通に丕司馬になりました。 『水浴び』→『川』→『釣り』→『丕様の「釣竿」の詩』→『詩の中で出てくる「好者(釣り人)」=「恋しい人」の喩え』 →『何とかしてつれない5仲達(釣り人)の気を惹きたい5丕様』の流れがこう…。 でも途中から、『実は川の深さなんてどうでもよくて、二人きりになって5丕をやきもきさせた後誘う気満々だったが、 予想以上に上手くいったので機嫌の良かった仲達』に見えてき(切断) すみません、水浴びのリクこなしてないかもしれません! 寧ろ捧げ物なのに不埒ですみません!orz ……と、言う訳で此方はリクエスト頂いた、くれあ様に捧げます。(平伏) 返品と改修はいつでもお受けいたしますので、煮るなり焼くなり捨てるなりして下さいませ! 20080818 海石 戻 |