「……これから、昭の元へ行くのか?」


 父に伴って帰陣してから僅か三刻ばかりだろうか。 幾らか話をした後、一礼して部屋を辞そうとした私を、父が引き留めた。


「はい。よく知ってらっしゃいますね」


 弟と会う事を言っただろうかと、振り返った私は内心で半ば訝しみながらそう返した。 未だ半人前ではあるがこれでも私も軍師の端くれで、上手くその疑問を隠したつもりではあったのだが、 きっとそれは偉大な軍師である父には拙い出来であったのだろう。 苦笑を返されてしまった。


「いや、何となくそう思っただけだ。
 ……まぁそれは兎も角、師、おいで」


 父が日に焼けた手を出して、来い来いと手を招いた。 年を重ねた父らしくもない、いつになく若々しい仕草は、つい先程、若き頃を想い出していたからなのかも知れない。
 随分と上機嫌なその行動に、よもや職務の時間を割いて弟と会おうとしていたのを咎めるとは考えられぬ、 と冷静に思いながら椅子に座していた父の御前に跪いて見上げた。 すると父は、安心させるように穏やかな笑みを一つ浮かべると、身振りで後ろを振り向くように促がした。


「髪が乱れておる故、直してやろう」
「……父上があんな突拍子もない事をなさるからです」


 あぁ、やはりそんな事か。
 想像通り咎めなかった父に、逆に嗜める言葉を返した。 それでも散々父の気まぐれに振り回された恨みは消えず、そもそもの元凶であった緑萼梅を横目で睨んでやった。 しかし当然ながら心も無い梅が、そのようなことに怖がる訳も反省する訳もない。 ただただ甘い芳香を卓上で放ちながら、父の横に堂々と陣取り、私に見せつけるかのように却って凛と誇らしげに咲いていた。
 草木如き、と思うものの、しかしこの梅が増長したとしても致し方ない、と詮無い事をちらりと思う。 梅は、さも恋人を扱うが如く父に大切に扱われ、手折られてから白い花弁の一つも損なう事無く城内に迎えられた。 何処から探してきたかは知らぬが、素朴とは言えど品の良い素焼きの花瓶に生けられたことは、 この梅にとって最上級のもてなしであろう。
 この城の主以上に主らしい丁重な扱われ方が益々憎らしいと思っていると、ふふ、と笑い声が上から降ってきた。 笑い事ではない、と年甲斐も無く無謀な行動をした父が憎らしくてじっと睨み付けてやれば、 それが益々父には面白かったらしく、上機嫌に笑い続けている。


「はて、そうであったかな」


 軽口を叩き、父はくすくすと笑う。私の冠を取るその手元は何と軽やかな事か。 結い直そうと手を伸ばす父が作業し易いようにと、素直に前を向きながらも、やはり何処となく面白くない。


「そうですよ」


 つん、と。 つい冷たく返しても、相変わらず父は笑うのみだ。 拗ねた私をあやさんとばかりに頬を一撫でして、何とも無い風に髪を梳いて結い直していく。 仮令眼を伏せてても分かるその手慣れた手付きは、本当は一体誰の為のものであったのか、などと。 存外に丁寧で優しい指使いが示す父の過去は、手持ち無沙汰に任せて若い私が想像するには、些か重苦しく悲しいものであった。















花釵















 私のすぐ下の弟は、私の部屋で待っていた。行儀悪くも人の寝台でごろごろしながら。


「兄上、一体どうされたんです?」


 そんな事は本当に今更で、特に咎める気も起こらない。溜息一つ、弟の側に腰掛けた。


「何が? ……あぁ、遅れた事か?」
「いえ、それは幾らでも待ちますが……。そうではなくてその髪です」
「……まだおかしいか? 父上に直して頂いたんだが……」


 襟元を手で確かめる。 父は見かけによらず手先は器用であった筈だが……と思ったが、 何分手櫛で水も油も付けずに結い直したから解れてきてしまったのかも知れない。


「いえ、そうでもなくて……って、これ、父上がなさったんですか?」
「? そうだが?」
「朴念仁で有名なあの父上にも風流が有ったんですね……」


 不思議がる私を尻目に昭はしみじみ(若干失礼な事を交えつつ)呟いた。


「? おい、昭、何の話だ?」
「兄上、気付いてなかったのですか? ……ほら、これですよ」


 弟の手が私の手を掴んで後頭部へと持っていく。 為すがままに髪を纏めた所に指を伸ばさせられると、何か滑らかで柔らかな物に触れた。 何だ、と判るまでもなく、それから甘い芳香が漂ってきて、自ずから正体を明かす。
 それは、先程見た緑顎梅の小枝だった。


「……なっ!?」
「あっ駄目ですよ、兄上! まだ取らないで下さい!」


 思わず引き抜こうとしたが、弟の腕に止められた。素早く私の両手を己の手で捉えると、胸に抱きかかえるようにして戒める。


「……何故?」
「勿体無いじゃないですか。折角綺麗なんですから……あ、勿論梅ではなくて兄上が」
「……。」
「……何ですか、その胡乱気な眼は。誰が何と言おうとも兄上は誰よりも一番綺麗です」
「…………。」
「次は桃でも挿してみましょうか。 ……あぁでも兄上の清廉且つ凛としたお姿には桃色は相応しくないかも知れませんね。 流石は父上、兄上の事をよく分かってらっしゃる」


 胡散臭げな物を見る目つきで私が弟を見ていたにも関わらず、 うんうんと頷く弟は滔々と私に似合う華だの何だのについて語り始めた。 素面で聞くのには何とも恥ずかしい、私への賛美を織り交ぜつつ。 いつもの光景なのだから、と思って半ば聞き流していても自然溜息が漏れるのは致し方なかろう。


「……、」


 憂う私の様子すら麗しい、と、うっとりと弟は私を見詰める。 普段、周囲に見せる冷たい顔には想像もつかないほど穏やかな笑みが浮かべられている。 幸せそうな……誰かを愛していることを噛み締めている顔だ。
 それを目にした時、よく似ている、と唐突に思ってしまった。 その時脳裏に浮かんだのは、己が主君を失った父の姿だった。 何を見るに付けても主君を思い出す、哀れで美しい父の姿がこの弟に重なり、哀れだと思ってしまった。 私がいない時、……いなくなった時、この愛しくも盲目気味の弟は何を見て私を思い出すのだろうか、と。


「……きっと父上は、私に白梅が似合うだなんて事、思いもしなかったと思うけどね」
「? どうしてです?」
「父上は、この梅には亡き人、在りし日を想っていたようだからね……」


 ぽつりと呟くと、弟は『あぁ』と納得したような言葉を漏らした。 それが何処か呆れたような響きであったのは、 父親が数年以上前に身罷った主君に未だ囚われている事が、恐らく理解し難いのであろう。 父のその盲目ぶりこそが、幼い内から見てきた父親の姿であると私は思っているのだが、 弟はその姿に複雑なものを感じているようであった。
 もしかしたら、尊敬する自分の父親が、戦下手で冷酷な曹丕に傾倒しているのが許せないのかもしれない。 それか、曹丕に付きっ切りで私達のことなど二の次だった事への嫉妬なのか。 何にせよ、弟の拘泥には微笑ましいとしか言い様が無いのだが。


「……昭は、何を見て私を思い出すんだろうね」
「昭は何を見ても、兄上を想い出します」
「……恥ずかしい事を言う。第一、それでは疲れはしないかい?」


 無邪気な事を言う弟に苦笑と共にそう返す。 きっと思い出す事は慕わしくも辛かろう。 思い出させる物が多ければ尚更に。
 さりとて忘れる事も人の身には容易く出来はしないのだ。 あの、他者への情が薄い偉大な父でさえも出来はしないのだから、余所人が出来る筈がない。


「…父上を見ていると、とても哀れでね」
「何故ですか?」
「側にいる時は良いけれど…会えなくなってもそれでは、ね」


 せめて、思い出す相手が妾などであったならばと思う。 なまじ相手が皇帝であるから、公務までもが偲ぶ対象になる。よくも世に絶望しきらないものだとすら思う。


「そうでしょうか」
「違うと?」
「何につけても思い出すのは、何にでも思い出が有る程、沢山傍にいたからです」


 私ももっと兄上のお側にいたい。
 羨ましいのです、と弟は零した。


「……昭、私は梅が似合っているか?」
「はい、とても! 兄上のお姿はもう忘れられません!」
「……そうか」


 ―――――ならば塗り変えてしまおうか。
      私を愛している哀れで愛おしい弟を、助けてあげようか。

 戒められていた手を取り返した。大人しく手を解放してくれた弟は、じっと此方を見て反応を伺っている。


「……では、昭」


 弟の視線に晒されながら、梅の簪を取り、纏めていた髪を解く。口元に白梅を持っていき、婉然と微笑んで見せた。
 私は自分で言うのも何だが容姿が人よりも良い方で、微笑一つでも人を容易く意のままにさせられる事を知っていた。 案の定、私を溺愛している弟が息を飲んで、此方を凝視していた。 その彼に擦り寄ると、先程口付けた白梅の華をそっと昭の唇に押し付けてやる。


「……梅を見る度、私だけを思いだしてしまうな?」
「……あに、うえ……」


 弟が私を抱きすくめる。一途に、必至に。 寝台に気づけば押し倒されていた。弟ではなくまるきり男の顔をして覆い被さる弟を見上げる。その髪に白梅を挿した。


「兄上?」
「私はお前程器用ではないからね……梅を見ては思いだそう。 ……お前との事を」


 するりと昭の首に両腕を回す。引き寄せて耳元で囁けば、弟が喉を鳴らした。


「刻み付けてくれるな……?」


 言うや否や、また強く強く抱き締められた。兄上、と呼ぶ掠れた声が合わされた唇の中に響く。 若さ故か、それとも彼の気質なのか食らいつくすかの様な口付けに、ぼうっと視界と思考が霞む。


「しょ…ぅ…!」
「兄上…、」


 苦しい、と瞑った瞼から一筋涙が零れ落ちていった。それを弟の舌が辿って舐めとっていった。 うっすらと目を開けると、滲む視界の先、白いあの梅が揺れている。まるで陽炎の様に。
 悲しく美しい、と思い眼を眇めて息を吐く。 父の目にもそう見えているのだろうかと考えていると、集中していない事を弟に見透かされていたらしい。


「ッあ…!!」
「……余所事なんか考えて……余裕ですね」


 と、いつの間にか足の間に割り込ませていた膝で熱を痛いくらいに刺激された。 性急な手が、瞬く間に衣を乱して快楽を煽り立てる。喉元に食らいつく唇が跡を付けては、熱を点けていく。


「兄上、一体何をお考えです? まだ父上の事をお考えで?」
「いいや、お前の事だよ」


 なんて酷く愛しい執着だろう。
 この愛しい弟は梅を見て私を思い出すのだろうか。思い出してくれるだろうか。あの庭で父が亡き人を偲んだ様に。

 ―――――私が先んじた後、長い時をいつまでも。


「きっと私は辛いから忘れてしまおうとするよ」
「……酷いです、兄上」
「ああ、そうだね。でも、」


 子供のように拗ねた弟は唇を尖らせた。縋った背を撫でてやり、尖った唇に唇を寄せてやると容易く弛んだのだけれど。


「昭は優しいから、兄を酷い男にせぬようにずっと傍に居てくれるのだろう? …私が」


 私が先に死ぬまで、ね。


「『私が』?」
「…何でもないよ」


 梅のように白い装束を、弟は私の為に着るだろう。さぞかしそれは哀れで綺麗に違いない。
 聞き返す弟に告げてしまえば悲しませてしまう事を密かに思い、私は笑った。
 私は父上のようにはならない、と。


「兄上…?」
「光陰は矢の如し…父上が私達を見逃してくれるのもそう長くはない。早く、始めないか?」


 昭だって我慢出来なかろう? と、腰に当たる熱い下肢を揶揄してやって首筋に強く吸い付けば、一つ華が咲いた。 紅梅の如し鮮やかさであった。





 白い梅よりも血のように紅い梅の方が弟には似合いなのが、幸いだと思った。











 終





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 何ヶ月ぶりだかはもう考えたくない白梅シリーズです。しかも丕司馬違うし…昭師だし…orz
でも史実はお兄ちゃん大好きでいつでもどこでも一緒ですから良いですよね…! 季節も合ってるし…!(えぇ)
 とりあえず此方は、壱万記念企画で昭師をご希望された方に捧げます^^;
シリーズでなく単品で昭師! とかツッコミがありましたらお申し付け下さい。頑張りますです!
あと返品・改修?OKですので・・・(汗)

 ※花釵…かさい。花の形に作った簪(かんざし)。(引用元:角川様の新字源)



  ikuri  09/02/16