―――――いと甘き眠りを貴方に。















眠之薬















 
 中華でいと尊き男が長椅子に凭れて浅く微睡んでいた。 眠りでさえも主には安らぎを得るには至らないのか、眉間には眉が寄っている。
 その様子に溜息一つ吐いて手にしていた盆をそっと卓に置く。 音は立たなかったけれども、周囲にふわりと漂った匂いにその瞼が開いた。

「…仲達。何だ、それは」

 不機嫌そうに掛けられた声は予想外にはっきりしている。 恐らくは浅い眠りにすら付いていなかったのだろう。
 主の足元に跪いて拱手しながら様子を窺ってみたけれども、その表情には欠片も微睡みの後が見当たらなかった。

「薬湯です…お飲み下さいませ」
「…病でも無いのに必要無かろう」

 煩わしげに手を振りながら、『下がれ』と主君……曹丕は嘲笑う。 その顔に主君の一面である冷たさが過ぎる。 恐らく常人ならば、主のその表情と皇帝という地位故に肝を潰すかの如き心地に陥るのだろう。 だが長年を共に歩んできた此の身には、不器用な主のただの虚勢にしか映らなかった。

「これは鎮静に良く効くものです…今の陛下に必要でございます」
「…何?」

 訝しげな声を上げた男がすっと眼を細めた。 核心を突いた司馬懿の言に警戒したようであった。

「よく、眠っていらっしゃらぬのでしょう?」
「…夜は忙しいのでな」

 追及に主は色めいた笑みを口端に浮かべた。 如何にも好色しく装うその表情に眉を顰めながら、横に座った。 伸ばした手で主の顔を捉え、じっと睨みつける。

「…何だ、妬いたか?」
「…貴方がお盛んなのは存じてはおりますが、眉間の皺と、眼の下の隈をどうにかしてからお言いなさい」

 稚拙な虚勢を張る主が不敵に笑むのを軽くいなし、彼が若かった頃と同じ様に叱った。
 彼もまた同じ事を想起したのだろう、罰が悪そうな…或いは拗ねた素振りを見せた。

「…仕方なかろう」

 長い長い溜め息が主の唇から漏れた。 あまり溜め息を吐かない主のそれは、言葉よりも雄弁な弱音であった。
 あまりにもあっさりと認めたのは、それほど弱っているせいなのだろうか。 観念してすっかりおとなしくなった主の、常よりも皺の寄る眉間に労りを込めてそっと唇を寄せた。

「…『内』が騒がしくて適わん」
「…はい」

 ぽつりと白状されたその言葉を頷きながら聴く。
 最近、宮中ではある事実が密やかに囁かれていた。 曰く、後宮に皇帝のおとないが絶え、代わりに毎夜のように書房に明かりが灯っている、と。
 絶世の美姫達を手にしながらも皇帝の奇怪な振る舞いは臣下の関心の的である。 畏れ多くも『とうとう枯れたのだろう』だの『色事に厭いたのだ』、 『早くも用にならぬのか』だのと、下らぬ邪推まで付随して出回る始末であった。
 勿論それは全く事実無根の妄言である。
 曹丕は決して淡泊な訳でも、女や色事に興味が無い訳でもない。 寧ろ未亡人となった父親の妻達すらも己の後宮に入れようとしていた程、色をよく好んでいたのだから。
 ならば何故足が遠のいたのか…それはこの主が父親と同じ轍を踏み、 臣下を真っ二つに裂いて危うく袁家の二の舞になりかけた過ちを犯しているからに過ぎない。
 つい先まで曹丕を苦しめた後継争いが、後継も帝位をも手にした曹丕を再び苦しめているのだ。
 現在、皇帝となった彼の世継ぎの座を巡り、妃達が躍起になっていた。 曹丕が、正妻との間に成した優秀な長男がいるにも拘わらず、まだ太子を決めていなかったからである。
 『ならば我が子を』と思うのは当然のことだろう。 既に子の居る妃は方々に愛想を振りまき、我が子の評判を高めて曹丕の覚えを目出度くしようとし、 子の無い者はどうにかして子を身籠ろうと宦官を抱き込んでお呼びが掛けられるようにしていると聞く。
 そればかりか己の子に栄華を掴ませる為ならば、或る者は甘言を、また或る者は讒言を口にして、 如何なる様な手段でも他人を蹴落そうと用いるのである。
 曹丕は暗愚では無かったから、その醜い裏の顔が見えてしまう。 美しい顔の下で蠢く欲と狂気は曹丕の嫌うところであり、足が遠のく原因でもあった。
 大抵の君主は政が嫌で後宮に逃げ込むものを、逆に曹丕は嫌な事があると殊更に政へ逃げてしまう嫌いがあった。 現実から堕落するのならば諌めれば良い。 だが、身を削ってまで政に勤しまれると、心配で堪らなくなる。

「……近頃、益々酷いご様子…」
「…まだ政の陰謀の方がマシと言うものだ」

 曹丕が深々と…苛立たしさを込めて溜息を吐いた。
 その溜息に込められた心情にそっと眼を伏せる。 若き曹丕を翻弄したのは政の陰謀で。 だがそれよりも彼を苛んだのは身内の醜い後継者争いであった。
 だからこそ、若き日を思い出してしまう後宮へは行かず、眠れぬ夜を仕事をこなして夜を明かすのだろう。 心労と疲労で窶れる程に。
 父親が亡くなった後も、彼が至尊の位に昇った今でも、 当時の日々の辛さに苦しめられる曹丕にとっては鬼門と言うしか無いのだから。

「…御公務も宜しいですが、陛下は些か過多かと存じます」

 とは言え、政務でさえも若き新帝の安らぎには到底なり得ない。
 先年折悪しく、曹丕の即位を不服とし、蜀の劉備が皇帝を自称していた。 加えて、未だ臣従している呉も水面下で皇帝偽称の用意を進めていると言い、 建国から間も無く盤石とは言い難い曹魏には主を煩悶させるだろう事ばかり山積みになっている。

「…何の為に私達がいるのですか?」
「何?」
「陛下の煩いを排除するのが私どもの役目…煩わしいものは取り除いてご覧にいれます」

 だが幸いなことには、曹魏には己のみならず、曹丕の若い頃より付き従う陳羣や曹真などの優秀な股肱の臣達がいる。 政務でも戦でも、主の憂いとなるものならば徹底的に排除するだろう。
 囁きながら指を頭に撫でるように滑らせ、結い目を軽く引っ張る。 あっさりと緩んだ冠を取り去ってしまうと、きつく戒められた髪も解いて梳いてやる。
 それには曹丕が僅かに驚いた様子を見せた。 略式の冠とは言え、それを取り去ってしまえば、もう公の場には出れず、政務は出来ない。
 まさか休ませようとしているのか、と窺うような曹丕に、微笑みを浮かべて頷いて見せた。 確かにまだ陽は高いけれども、偶には早く休ませねば、体にも心にも差し障るのだ。 ……ましてや疲労が溜まりに溜まっている状態では。

「…さしずめ先ずはこの冠から、か…。随分と優しく労ってくれるのだな」

 さらり、さらりと戒めが解かれた髪を撫でるように指を通す。 少し癖は付いていたものの、よく髪油で手入れされているお陰で引っ掛かりを感じる事はなかった。

「何を仰有います。私はいつも優しいでしょう?」
「はて、そうであったか?」

 曹丕が、髪を梳いていた側近に軽口を叩きながら忍び笑いをし、私はそれにわざと真面目な表情を作って応えた。 他愛のないふざけ合いだ。 主もそうと察して、側近のわざとらしく装った顔に悪戯げな色を見せた。

「そうですとも。何せ貴方は私の唯一無二の主…」

 耳元で囁くように、曹丕を抱き込むような形で緩く結わえ始める。 しかし括り上げるのではなく、下の方で結び目を作った。 魏王の地位を受け継ぐ前、今よりはずっと気ままな身分であった頃にしていたものに近い髪型だ。 懐かしさと満足な出来映えに思わず微笑が浮かぶ。

「…ですから優しくも致しますし、胸を痛めて心配もする訳です」

 手櫛で乱れた前髪を丁寧に整える。 そうしていると主が腕を伸ばして腰ごと体を膝に抱き寄せ、そのまま胸元にすり寄ってきた。 幼子のようだと思いながら、今ならば素直に聴くのではないかと強請るように甘やかな声でその耳元にまた囁く。

「哀れな臣下の胸を救う為に、飲んで下さるでしょう…?」
「仲達…、」

 感極まったように曹丕が己の名を呟いた。 請う響きのそれに促され、私も視線を合わす。 首筋には主の手が当てられ、緩やかに引き寄せられる。
 だが、今にも唇が重なりそうになった時、今までの殊勝な態度を一変させ、強かに曹丕が笑んだ。

「――――薬よりも『此方』が良い」
「ん…ッ!?」

 何やら不穏な言葉が聞こえたと知覚しない内に首の後ろを掴まれ、強引に口付けられた。 すぐに唇を舌が割り開き、開いた隙間から侵入してくる。
 ふるりと震えた背を曹丕の指が滑らかに辿り降り、腰を絡め取っていく。 ぐい、と引き寄せられた身は上体から腰までを隙間など無い位にぴたりと合わされ、鼓動と温もりが伝わってくる。

「…私に必要なのは単なる『休息』ではない」
「っ…!」

 分かるだろう? と曹丕が耳元で囁きながら耳朶の軟骨を甘噛みし、冷たい耳朶を熱い口内に含んで吸う。 じわり、と切ない疼きが身に灯り始めて慌てて身を捩った。
 だがそれすらも許されず、抱く腕は強められ、肩口に顔が埋められる。 首元に鼻先を擦り寄せて甘える仕草は、やはり人形を抱き締める幼子を相手にしているかのような錯覚を抱いた。

「……まだ、仕事が」
「ならば手伝おう。二人でやればすぐに片付く」

 戸惑いながら返すと、申し出はすぐに却下されてしまった。 必死ささえ感じられる応えに、宥めようと自ら背に腕を回した。 …回して、薄くなった背の筋に、気づかれぬように眉根を寄せた。

「…それでは休息にならないではありませぬか…。第一、その御髪ではなりませぬ」
「この様に抱きついておいて…まさか一人で休めと言うのか…?」
「抱きついてきたのは貴方ではありませぬか…!」
「…つれない事を」

 唇が重ねられると弱々しい非難の声など容易く封じ込められてしまう。

「んっ…!」

 抱き込めていた手がいつのまにか腰骨の窪みを丸くなぞると、双丘の谷間の端に指を滑らせた。 すぐに先端が後孔を探り当て、弱く押す。 反射的にきゅ、と閉まった尻に、男が上機嫌に笑い声を漏らした。
 曹丕には児戯にも等しい手管。
 睨み付けようにも仄かに霞む視界では説得力もなく、密着した身体からは速まる鼓動が伝わってしまうだろう。

「…子桓様、」
「何だ…?」

 未だくすくすと笑う主は随分と上機嫌であった。 見下ろす表情は柔らかく、抱き留める腕は穏やかに体を拘束する。 きっと今なら容易く逃げ出せるだろう。 主もまた無理強いはしない筈である。
 だが、一向に身体は逃げようとしてくれない。 歳を重ねても無駄に整ったままの顔と、深い琥珀の双眸が愛しさを乗せて向けられていることに、酷く胸が騒いでいる。 そこらの小娘でもあるまいに。

「……此処では、嫌です」
「此処でなければ、何処が良いのだ?」
「……分かってらっしゃるくせに」

 意地悪い主に、ふい、とそっぽを向けば、拗ねた臣下を宥めようとして口付けを一つ頬に落とした。 大抵、それで臣下が簡単に絆されると分かっているのだ。

「…………あと、服して下されなければ駄目です」
「分かった分かった」

 主が身を離し、杯に手を伸ばした。 液体を回すように揺らすと緩慢に動く暗緑色のそれに眉を顰めながら一息に呷った。
 反らした喉の喉核が動くのを見届けると、薬は気休め程度にしかならぬものだとは思いながらも安堵が沸き起こる。

「……苦いな」
「我慢して下されませ。味は兎も角…腕の良い薬師に作らせました故、良く利いてくれましょう」

 曹丕の愚痴に『良薬は口に苦しと申しますから』と零しながら、同意を込めて苦笑を浮かべた。
 口端に僅かに漏れた薬湯を、曹丕が親指の腹で拭うのを押し留めて、己の手巾で綺麗に拭き取った。 汚れを内にして折り畳んでいると、主の堅い手が手にした手巾ごと我ながら生白いと思う手を包み込む。
 何を、と視線を上げると、触れるだけの口付けが降って来た。 まだ唇に残っていたのだろう、久々に味わった薬湯の味は僅か少量とはいえ眉を顰めさすには充分なもので、 うっかり薬草の苦味に咽そうになった。
 人を巻き込むな! と文句の一つでも言ってやろうと思ったが、困ったことに彼の顔が想像していた様な悪童めいた顔ではなく、 慈しみに満ちた穏やかなものであったので言葉を失ってしまった。

「……、」
「…そうだな、良く眠れそうだ」

 ぽふ、と肩口に主が顔を埋(うず)める。
 丁度、外からは初夏の爽やかな風が部屋に流れ、そよいだ主の横髪が頬を擽っていく。 幸いな事に、春を抜けた頃の穏やかな気候は夜でも変わらず、眠り易い季節であった。 きっと主の安らかな眠りを妨げるものにはならないだろう。

「それは何よりでございますな」
「ああ。…こんなものより、お前の方がよほど……」
「……子桓様?」

 言葉を紡ぐ内に力なく消え入る声に反して、身にかかる重みが増した。 まさか、と思っていると、微かに規則正しい寝息が聞こえてくる。

「子桓様、せめて、寝台に……!」

 小声で促がすが、寝入り端にも関わらず、曹丕は既に深い眠りに落ちていたようであった。 やはりそれだけ身体が限界であったのだろう。 最初は揺すってでも起こそうと思っていたのだが、気持ち良さそうな寝顔を見てしまっては到底その様なことも出来ず、 結局諦めて大人しく枕の役を務めることにした。 だが『せめて』と膝に乗せられたままの状態からどうにか脱して、主共々長椅子に何とか横になった。 それでも起きる気配が皆無な男に、ふ、と溜息が漏れた。

「……今日だけ、ですぞ」

 応えるように身じろいだ主の背を抱き、瞼を閉じる。 すぐに訪れた眠りはとても甘やかな気がした。










 終





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 忘れ去られたとしても可笑しくない位、大昔の壱万hit記念企画、最後のリクで『程よく甘い感じの丕懿』でございました。
 此方はリクして下さった琥珀様に献上致します。 大変…大変遅くなってしまい…お待たせしてしまいまして申し訳ありませんでした!(土下座)
 程よく甘い丕懿どころか甘い丕懿って書いたことないかもなのですが…程良く甘くなってますでしょうか…?;;
 こ、これが海石の精一杯の甘さと久々のまともな丕司馬でございますが、少しでもお気に召して頂けたら幸いです;


  ikuri  10/06/05