――――――――――潦恋着――――――――――







「曹丕様!」

 抱え起こした体は死体のように冷たく重かった。他ならぬ曹丕の身体だと言うのに、何か得体の知れない……それこそ濡れそぼっていたせいで何か別の物のように思えてきて背筋を嫌悪に似た恐怖が走り抜けた。
 あれはいつの日であったか、司馬懿は昔、行きずりの男が道端で死にかけているのを助け起こしたことが有ったのだが、その時の冷たい重み―――――生を諦めた魂が身体から抜けていくような……手にひたりと纏わりついて地に堕そうとするような独特の重みを彷彿とさせた。

「曹丕様! しっかりして下さい! 曹丕様!」

 悪い雑念を振り払うようにして曹丕の冷たい身体を揺さぶった。それでも曹丕の身体は微塵も動く気配もなく、焦燥と恐怖だけが募った。雨は激しくなり始めていて、無防備な身体を容赦なく痛い程に叩く。せめて、と司馬懿は覆い被さるようにして、膝に乗せていた曹丕の頭だけは守る。

「曹丕様、目を開けて……!」
「二少爺! 一体何が…、ッ!?」

 雨音の中でも司馬懿の悲鳴にも等しい声を聞きつけたのだろう。邸から家宰が走り出てきた。何か有ったらしいと覚悟して来た筈の男は、曹丕が倒れている上に、その顔色が白を通り越して蒼に近いのを見て息を飲んだ。

「生きて……?」

 問いかけに司馬懿は『分からぬ……』と唇だけで呟いた。曹丕を膝に大切に抱きかかえながら傍に膝を着いた男を見上げる。

「……つめたい……よびかけても、うごいてくれぬのだ……!」

 自分で口にして、益々増した不安に司馬懿は唇を噛みしめた。うろうろと頼りなげに揺れる視線と、寒さと恐怖に歯を鳴らす様子は、普段冷静な司馬懿の動揺の深さが垣間見えた。男は『失礼』と零すと、年若い主が不安そうに見守る中、曹丕の鼻先と首筋に触れ、最後に額に手を置いた。そうして力強く…安心させる様に深く頷く。

「……ご案じ召されますな。高熱で意識を失っているだけの事。……あぁ、誰ぞ! 誰ぞおらぬか! 典医を呼べ! 湯と床の用意もだ! 早く!」

 男がそう声を掛けながら立ち上がると、邸は一気に騒然とし始めた。その家宰の言葉、その騒がしさに、司馬懿から僅かながらに死への恐怖を拭い去る。助かるだろう、という展望が見えた事に司馬懿は安堵するが、その推測に根拠が無いと、不安な気持ちが心をかき乱す。どんなに自分の手で曹丕の冷たい肌を温めても欠片とて温もらない事実がその最悪の結末に拍車をかける。

(そんな……)

 恐怖が身を竦ませて、司馬懿は呆然と……下男達が曹丕を邸内に運ぼうとするまで、銀糸に体を強かに打たれながら、人形のように白く整って美しい顔をずっと見下ろしていた。







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