聖なる夜に安らかな眠りを



曹丕にとって、クリスマスというイベントはさしたる意味も興味も持たないものだった。
きらきらと光るイルミネーションが街中を彩る様は好きだったが、周囲にいる同年代の子供たちのように、サンタクロースがプレゼントをくれる、等という戯言を信じられるような環境にはいなかった。そういったことをしてくれる父は忙しく、曹丕よりも弟たちを溺愛していた。
そんな父に代わって曹丕の面倒を見てくれていた兄が生きている間は、少しは心待ちにしていたそれも、兄が亡くなって習慣が途切れてしまえば、ああ兄が用意してくれていたのだと悟るのは容易かった。
豪華な食事やクリスマスの定番のケーキも、既に後継者としての教育を施すためと、塾だの何だのと多忙にしていた曹丕には関係のないもので、弟たちが眠りにつく頃、独りで食すそれが美味しく感じられる筈もなく、自然敬遠するように外で食事を済ませるようになった。
何の感慨も持たずに何年かその日を過ごしていれば、淋しいとかつまらないとか、そういった思いをすることはない。少しだけ周りが騒がしい特別でもない日だと曹丕は考えていた。



その考えを覆されたのはとある男と出会ってからだった。
家庭教師として雇われたその男と初めて対面したのは、初等教育課程を終えようとしていた頃。能力はあるがそれを発揮しようとはしない、顔は整っているが無愛想なので台無し、礼儀正しいが慇懃無礼。
第一印象は良いとは言えず、互いに相手の腹を探り合っていた二人だが、ある日突然、本当に唐突に、男は曹丕を甘やかすようになった。甘い笑顔で微笑んだり、頭を優しく撫でたり。最初は戸惑っていた曹丕も、そうして与えられることを抵抗なく受け入れられるようになった。
すると曹丕の心境の変化に合わせるように、男の愛情表現もエスカレートしていく。訳もなくお菓子をくれたり、誕生日にはプレゼントをくれたり、はたまたスキンシップが増えてきたり、そして。クリスマスの楽しさを思い出させてくれたのもその男だった。
その日、何の期待もしていなかった曹丕は、机上に置ける小さなクリスマスツリーと、豪華とは言えないものの、趣向の凝らされたショートケーキ一つと、プレゼントにと万年筆を渡された。目の前に置かれたそれらが一体何であるのか理解できず、困ったように男を見上げると、一言、メリークリスマス、と言葉を贈られる。
それだけで涙が零れそうになって俯いた曹丕の頭を男は優しく撫でる。消え入りそうな声で呟いた感謝の言葉はそれでも男に、司馬懿にはしっかりと届いていたようで、いとおしむような柔らかい笑い声が落ちてきたのだった。
それからというもの、クリスマスに限らず、様々なイベントがやってくるのが楽しみになった。誰かと一緒に共通の時間を過ごせるという事実が何よりも、曹丕の心に擽ったくも温かい気持ちを齎す。久方ぶりに与えられる無償の愛情に舞い上がっていたと言ってもいい。
有り得ないと頭では理解していても、何処か心の一部ではこんな毎日がずっと続くのではないかと少しだけ期待もしていた。



それは司馬懿と出会ってから数回目の12月のことだった。今年も司馬懿とクリスマスを過ごせるだろうかと期待に胸を弾ませていた。プレゼントには何を贈ろうかと思いを巡らせていた時、男の疲れたような声が聞こえてきた。

「今年のクリスマスイヴは仕事になりそうですよ」

苦笑を交えたその言葉に曹丕の動きが止まる。そんな曹丕に気付いていないのか、司馬懿は尚も続ける。

「上司からの命令で、どうやら接待らしくて」

「そう、なのか…」

司馬懿は曹丕の父、曹操が経営する会社に勤めている。曹丕の家庭教師をするようになったのも、司馬懿が曹操の目に止まったのがきっかけだった。それ故曹丕の勉強を見る時間も勤務時間として扱われているらしい。
会社の上司からの命令。つまり、その仕事というのは父の意向も多分に含んでいるということだ。ならば、淋しいなどとは言えない。

「12月24日は金曜日だったな…次の日の家庭教師は休みでいい…父には、私から言っておく」

司馬懿が家庭教師のために訪れるのは土曜日のみ。まさか元日から働かせることもないので、必然的に三週間は顔を合わせない計算になる。年内ももう会うことはないだろう。

(問題ない、勉強も、一人で十分出来る)

驚いた表情の司馬懿に口を挟む余地を与えずに告げると、話を打ち切るかのように参考書を開く。何か言いたそうにしていた司馬懿も、結局口を閉ざしたようだった。



年の瀬は忙しない。それは無感動に日々を過ごしていた曹丕にしても同じことだ。
司馬懿の今年最後の授業からもうすぐ一週間。その間に冬季休暇に入り、今日はもうクリスマスイヴだ。数日前に街を歩いた時も世間はクリスマス一色で、煌びやかなディスプレイが目に痛いと思った。
しかしそんな街の様子とは裏腹に、部屋は静寂に包まれている。机に向かって問題を解きながら、そんなことを考える。
空調の設定が間違っている訳ではないのにしんと冷えきっているような錯覚にさえ陥る。親元を離れ、一人暮らしをしながら有名私学に通う曹丕にすれば、誰も側にいない夜などそう珍しいものでもないというのに、静かだなどと感じてしまうのは。

(…馬鹿馬鹿しい)

苛立たしげに溜め息を吐いて、曹丕は思考を打ち切った。
鉛筆を投げ出し、教科書を端に乱雑に寄せてひんやりした机に突っ伏す。首を動かせば窓から外の景色が見えた。高層マンションからの眺めは普段はそれなりに鑑賞に値するものだが、今は興味を持てない。尤も、その景色を見ようと思ったことなどなかったが。
ぼんやりと闇に滲む灯りを眺めているうちに下りてきた目蓋に抗うことなく、曹丕はそのまま眠りに落ちていった。



耳に流れ込んできた、電子化されたクラシックの音に意識が浮上する。携帯電話の着信音だと気付いたのは、それを10秒ほど聞いてからだろうか。
何度か瞬きをして、緩慢な動きで音楽を流し続ける機械に手を伸ばす。諦めずに呼び出し音を鳴らすそれに若干の苛立ちを持ってディスプレイを見た途端、着信の相手を知らせる液晶画面に瞠目した。

「…何で…」

思わず声が零れる。混乱した頭で辺りを見回し、時計で時間と日付を確認して。その間にも電話はずっと着信を告げている。
出なければいつまでも待っていそうな相手の姿を想像して、曹丕は覚悟を決めて通話ボタンを押した。ゆっくり耳に携帯電話を当てて、声を出す。

「…もしもし」

「子桓さん、夜分に申し訳ありません」

「いや、構わない…何かあったか、仲達」

声の主は言わずもがな司馬懿だ。暫くは声も聞けないだろうと思っていたので、電話でも嬉しい反面、疲れているのではないだろうか、どうしたのだろうかと不安も押し寄せてくる。緊張しながら次の言葉を待っていると、告げられたのは信じられない言葉だった。

「今、マンションの下にいるんです。伺ってもよろしいですか?」

「…嘘だ」

呟きに、嘘だと思うなら見てごらんなさい、と返され、半信半疑で窓からマンションのエントランスの辺りを見れば、黒のトレンチコートを身に纏った男が携帯電話を手にこちらを見ていた。

「…あ…」

「ね、嘘ではないでしょう?」

司馬懿の口の動きに合わせて耳元に声が届く。優しく囁くようなその言葉に、曹丕はそれだけで泣きそうになる。こくこくと頷いて、すぐにエントランスのセキュリティを解除する。
玄関で司馬懿が訪れるのを待っていると、間を置かずインターフォンが鳴らされる。相手も確かめずに慌ただしくチェーンを外し、音を立てて扉を開けると、そこには待ち望んだ人がいた。

「こんばんは、子桓さん」

目を少し細めて微笑む司馬懿の表情は甘い。文句なしに男前なその顔に暫し見惚れていると、入っても?と苦笑と共に促され、はっとして中に司馬懿を通す。いつもの癖で自室に招き入れてから、リビングの方が良かったかもしれないと思った。しかし司馬懿は気にしないようで、勉強机を見つめたまま問うてくる。

「こんな時間まで勉強なさっていたのですか?」

「…まあな」

「机で寝ていませんでしたか?」

「……」

曹丕の行動を全て見越した上での問い掛けに、思わず無言で肯定してしまう。常々同じことを注意されているので、怒られはしないかと内心怯える曹丕に、しかし司馬懿は仕方ないですね、と曹丕の頭を撫でた。その心地よさにうっとりとする。

「淋しかったですか?」

不意に、頭上からそんな言葉がかけられた。はっとして顔を上げると、そこには複雑な表情を浮かべた司馬懿がいる。その視線に晒されていることがいたたまれず、曹丕は顔を背けた。

「淋しいなんて…ありえない」

「本当に?」

しつこく聞いてくる司馬懿に、未だ頭に乗せられている手を振り払い、曹丕は激昂した。

「淋しくないと言ってる!」

必死に睨み付けるも、司馬懿に堪えた様子もない。
先程まで感じていた温かい思いを無視してまで、何故これほどまでに意地を張るのか、曹丕自身にもわからず、それでも今更素直にもなれず、気まずげにまた視線を反らす。

「…大体、今日は仕事だったのだろう…私が哀れでわざわざ来たのか?」

無言の場に耐え切れず、憎まれ口を叩く。視線は合わせられそうにない。

「ふん…図星か?」

何も言わない司馬懿を鼻で笑う。自分の言葉に僅かに傷付いたのには、気付かない。すると沈黙を破り、司馬懿が口を開く。

「今日は接待…とは言ってましたが、殆ど見合いみたいなものでして」

ぴく、と曹丕の肩が揺れる。

「得意先のお偉いさんの娘さんらしくて、上司が非常に乗り気だったのですよ」

少し笑いの混じった司馬懿の声。

「相手も、満更でもなかったようで、まあまあ美人でしたし」

「…っ」

「…でも」

唇を噛み締めたところで声が重なる。

「つまらないんです、仕事だからというだけじゃなく」

司馬懿の手が曹丕の手を取り、両手で包み込む。

「料亭で懐石を食べるよりここでケーキを食べたかった、つまらない話を聞いて愛想笑いを浮かべるんじゃなく、他愛もない話をして笑い合いたかった」

指先が擽るように手の甲を撫でている。声音に優しい響きが滲んでいる。

「子桓さんと一緒にいられなくて、淋しかったんです」

だから、迷惑かとは思いましたが、来てしまいました。
その言葉を最後に、再び静寂が訪れる。おそるおそる視線を上げれば、とろけるような微笑を浮かべた顔がある。
曹丕のすべてを知っているような、その上で許しているのだと言わんばかりの男。
素直になれなくて、酷い言葉を投げかけてしまうような自分に、怒るでもなく諭すでもなく、でも確かに正しいことを教えてくれる人。

「…ちゅ、たつ」

「はい」

「ごめん、なさい」

片手で曹丕の手を握ったまま、片方の手で髪を撫でる司馬懿に促され、ぽつぽつと言葉を紡ぐ。

「きてくれて、うれし、い」

「子桓さん」

「わたし、も」

声が途切れる。何かを堪えるように、唇が引き結ばれ、そして。

「さみし、かったぁ…っ!」

言葉に出した途端、押し込めていた思いが堰を切って溢れ出す。
本当は淋しくて、本当は傍に誰かいてほしくて、辛いのを堪えていた。ずっと一人で耐えていればそれが普通になって、悲しいなどと思うことはなくなったのに。
司馬懿が甘やかすから、孤独に弱くなった。でも、淋しい時、縋っていいのだろうか。そばにいてほしいと我儘を言っていいのだろうか。司馬懿なら、許してくれるだろうか。
潤んだ瞳から涙が次々と零れ、視界を覆う。司馬懿に抱き締められると、我慢出来ずに声を上げて泣き出す。体を包む温かな体温と背中を擦る手の優しさに身を委ねるように曹丕は涙を流し続けた。



泣き声が止むと、疲れたのか曹丕はくったりと身を預けてそのまま眠ってしまった。その表情は、泣き腫らした目元は痛々しいが、それでも晴れやかに見える。
指先で軽く涙を拭ってやり、寝台に寝かせてやる。そして自分も、水分を吸って一部色の変わったコートとスーツのジャケット、ネクタイだけ外してその隣に寝そべる。スラックスは皺になるかもしれないが、些細な問題だった。

「明日はケーキを食べましょうね…ああ、ご飯も作りませんと…勿論、プレゼントも用意してありますよ」

すうすうと寝息を立てる曹丕に司馬懿は囁く。
感情表現の苦手な曹丕が溜め込んで壊れてしまわないようにするのは骨が折れる。でも、面倒などと思ったことはないし、いつか自分にはすべて見せてくれるよう、何とかしてやりたいと思う。
あなたが健やかであるように、穏やかであるように、愛することが自分の生き甲斐だと思う。今はまだよこしまな思いには蓋をして。それでも逃がしはしないけれど。
目蓋に口付けを落として、しっかりと曹丕を抱き締めながら、司馬懿もまた眠りについた。








エンド







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何か…野生の獣を手懐ける司馬懿みたいな。
親切面してどう考えてもお前が泣かせてるじゃねーか!っていうのが好きです。