この世界の終わりを見る日にはきっと








夜も更けた時分に、司馬懿は曹丕の私室を訪ねた。
今宵は九月九日――重陽だ。
陽の重なる稀なる日に長寿を祈るのだ、と珍しく機嫌の良い曹丕に言われれば、部下である自分は素直に参じるまでである。
扉の外から声をかければ入室を許可する声が聞こえてくる。
誘われるまま足を踏み入れると、窓際で既に杯を傾ける主の姿が見えた。

「お待たせしてしまい、申し訳ありません」

「構わぬ、良く来たな」

側に寄り頭を下げると存外優しい言葉がかけられる。
どうやら酒精が曹丕を程よく冒しているようだ。
促されて曹丕の対面に腰を下ろすと、すぐさま空いた杯に酒が注がれた。
普段なら主がそのようなことをと礼儀について嗜めるところだが、不愉快にさせることもあるまいと黙って杯を手に取る。

「待て、仲達」

しかし曹丕が手を伸ばしてその動きを制止する。
何事かと杯は手にしたまま、曹丕の挙動を見守っていると、指が繊細な造りの器に向かう。
蓋を取り、中のものをそっと摘んで杯に浮かべる。
水面にゆらりと揺れる黄色く細長いそれを、目を凝らして見る。

「これは…菊、ですな」

「ああ」

それが皇族に持て囃される重陽の習慣の一つだと気付くのに時間はかからなかった。
いかにもこの人の好みそうなことだ、という言葉は飲み込んで、漸く盃を手に持つ。
まじまじと眺めても、口に含んでみても、いつもの酒と変わらない。
寧ろ、慣れない花弁の香りが鼻についてしまうそれを一気に飲み干して司馬懿は暫し無言になる。
主には悪いが、感慨など欠片もなかった。

「何だ、口に合わなかったか?」

「いえ…そのようなことは」

「嘘が下手だな」

指摘され、否定するもくすくすと笑われ、ばつが悪くなる。
これまで、他人に心情を見破られるなど滅多にないことだったのに、曹丕には容易くそれを許してしまう。

(…不覚だ)

この人の前ではどうにも調子が掴めない己を自覚している。
だが、それだけだ。
どうにも出来ずにいるなど軍師の名折れではるが、抜け出せずにいる。

「知っているか?仲達」

手の中の盃を弄びながら曹丕が口を開く。
その視線は揺れる水面を追っている。
問い掛ける口調ではあるものの、司馬懿は主に目を向けるだけで答えずにいることにする。

「何処かの山の奥には死にもせず老いもしない童子がいる」

よくある口承の類だ。
曹丕はそういった真実ともつかぬ話を収集するのを好む。

「その童は菊の露から成る甘露を飲んで仙人になったのだ」

「それに肖って菊を嗜むと?」

反対にそういった怪しげな話を苦手とする司馬懿は、無礼かと思いながら口を挟む。
そもそも、司馬懿には長寿の願望などない。
まして、かつての権力者たちが求めた不老不死には、嫌悪すら覚える。
その理由が永遠に玉座に居座ることだと思えば尚更だ。
あからさまに顔を顰めた司馬懿に、しかし曹丕は咎めることはせずに、ただ司馬懿を一瞥して、先程とは異なる酒瓶に手を伸ばした。
玻璃だろうか、美しいそれを傾けると、透明な液体が空の盃に注がれた。

(酒か…ただの水か?)

区別しているからには何か特別なものなのだろう。
行方を目で追っていると物語でも紡ぐかのような曹丕の声。

「童子が住む山はれっけん山といい、その光景はまるで桃源郷のように美しい」

盃を取り上げ、眼前に掲げる細い指。
気だるげに寄越された視線に、司馬懿は体を震わせる。

「天人が祝福する水は驚く程甘い」

口が笑みを象る様を見て、有り得ない想像が脳裏を過ぎる。

(そんな…まさか)

頭がくらくらと目眩でも起こしたかのように痛む。
そんな司馬懿の目の前に液体がなみなみと注がれた盃が差し出された。
意図を問いたくて曹丕を見れば、何でもないように言われたのは。

「飲んでみるか?」

「っ…は、…その…」

「いらぬか?」

誘惑の言葉に動悸が激しくなる。
緊張からか渇いた喉からは声も出ず、大した反応すら返せない司馬懿に、曹丕は首を傾げてみせる。
途端に目の前の主が恐ろしい、人ならざるものに見え、司馬懿は息を呑んだ。
ぞわりと背中に走る悪寒に身震いして、まるで鬼と対面したかのような面持ちで曹丕を凝視する。
そんな司馬懿の反応を見て、曹丕は徐に手中の水を飲み干した。

「なにを…!」

瞠目し、声を上げるも本人は涼しい顔をして盃から口を離す。
知らず中腰で身を乗り出していた司馬懿を見て、曹丕は笑う。

「どうした、仲達」

「その水…」

「ああ」

焦る司馬懿とは裏腹に落ち着いた様子で水の入った瓶を見遣り、事もなげに言った。

「ただの水だが」

「は…?」

「よもや本当に不老不死になる水があるとでも?」

「…あなたという人は…」

楽しそうに己の盃と新しい盃、二つに水を注ぐ曹丕を視界に入れて、脱力して腰を下ろした司馬懿は大きく溜息を吐く。
たちの悪いからかいに、改めて主の性格の問題を認識させられる。
水で満たされた盃を、今度は拒むことなく受け取ると、それでも恐る恐る口につける。
しかしそれはやはり、何の変哲もない水だった。
悪戯が成功した曹丕は上機嫌に笑みを浮かべながら、口を開く。

「妖のものの肉を喰らう、月にある木に成る実を食べる、そんなことをしてまで人は久遠の命を求める…何とも、哀れなものだ」

その言葉を聞きながら、司馬懿は思う。

「お前も、老いも朽ちもせぬ身体が欲しいか?」

「私には…そのように執着する気持ちは判りませぬ」

曹丕の問いにゆっくりと首を振りながら、夢想する。
もし、もしも。
まるで堕落の道へ誘うように差し出されたあの水を、刹那でも拒むことを忘れてしまった自分は。

(あなたに与えられるものならば、罰のような長い時間でも構わない、など)

全く、愚かなことだ。
胸中でつまらぬ妄想だと吐き捨てて、司馬懿は偽りの甘露を飲み干した。








エンド







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エア交地企画懿丕でした
日本から逆輸入重陽です
ちなみにエア交地第二弾エロがあるんですが
ここだと上げられないのでぴくしぶに飾っております
興味があれば探してみてくださいまし