バレンタインという行事がある。
プレゼント、主にチョコレートを渡して、感謝や好意を伝える日だ。
自分には縁のないイベントだと思っていたけれども、今年は――



テキストから少しだけ視線を上げて、曹丕は傍らにいる男を見た。
いつもどおり涼しい顔で本を読んでいるのは、一応曹丕の家庭教師という名目でここにいる人物だ。
父の会社の人間。
週に一度、曹丕に勉強を教えにくる、お目付け役のようなもので、その態度も相俟っていかにも仕事でやっていると思われがちだが、そんなことはない。
司馬懿は、曹丕を溺愛している。
明らかに家庭教師の業務外のことまで甲斐甲斐しく世話を焼き、贈り物を用意する。
父親に取り入りたいようにも見えるが、それはないだろう。
最初に言ったのだ。
「曹操社長のことは正直好きではありませんが、あなたは可愛いですね」と。
…勿論最初に聞いた時、曹丕の機嫌は氷点下まで下がった。
そんな訳で第一印象は最悪だったが、司馬懿はいつからか真摯な態度で接するようになった。
曹丕も心を許し、クリスマスには司馬懿の前で大泣きをしてしまった。
それから一月と少し、曹丕はある決意をしていた。
以前なら思うこともしなかったであろう、曹丕にとっては重大な――

「子桓さん?」

いつのまに本から顔を上げていたのか。
顔を近付け、こちらを覗き込むようにする司馬懿と至近距離で目が合い、曹丕は頬を赤く染めた。
そしてはっと顔を背け、明らかに動揺した様子で、何とか一言。

「何でもない…っ!」

言った後にしまったと思ったが、後の祭りだ。
まるで恋する乙女のような反応を見せた曹丕に、司馬懿はそれならいいのですが、と笑って頭を撫でた。
そのことが嬉しいような悔しいような複雑な感情を齎して、洩れかけた溜め息を無理矢理押し止めることになった。



月が変わった最初の日曜日。
曹丕はデパートを彷徨い歩いていた。

(何がいいのだろうか…)

慣れない場所に、些か緊張しながら辺りを見回して、探す。
探しているのは、司馬懿へのプレゼントだ。
来週はバレンタインデー。
司馬懿がいつも訪れる週末とは少し日付がずれるが、きっかけでもなければ感謝の気持ちを込めた贈り物など出来ない。
それでも重大な決心が必要だったのだ。
そして今日、意を決して、買い物にやってきたのである。
しかし。
ネクタイ、手帳、万年筆。
ハンカチ、マフラー、キーケース。
様々なものを見て回ったが、何を贈ればいいのか、曹丕には全くわからない。
今までプレゼントなんて選んだことがないのだから、仕方ないことなのかもしれないが。

(私には、こんなこともできない…)

きゅう、と胸が痛くなり、唇を噛む。
司馬懿が喜ぶものなんて、用意出来ない。
悔しくて、立ち尽くしていると。

「おや?そこにいらっしゃるのは曹丕殿ではありませんか」

「っ…」

軽い調子で名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
そこにいたのは髭面の、一見怪しい風体の男。

「どうしたんです、こんなところで」

「…賈ク」

それは、父の会社に勤める男だった。
賈クは、司馬懿が曹丕の家庭教師になる前、少しだけその役目を担っていた。
歯に衣着せぬ物言いは社長の息子である曹丕にも好感を持たせ、接したのは短い期間ではあったが、数少ない信頼に足る大人だった。

「外出なさるなんて珍しいじゃあありませんか」

「…引きこもりのように言うな」

「似たようなもんでしょう…司馬懿殿はご一緒ではないんですか?」

辺りを見回す仕種を見せて、賈クが問う。
曹丕は動揺を声に出さぬよう細心の注意を払い答えた。

「何故、そこで仲達が出てくる」

「あなたが行動を起こそうとするなんて、あの御仁関連以外にはないと思いますがね、違いましたかな」

相変わらず他人の機微に聡い男だ。
内心舌打ちしながら思わず黙り込んだ曹丕の行動は肯定と同義だった。
にやりと笑って賈クが顎を摩る。

「一緒でないとなると…ははあ、司馬懿殿に贈るプレゼント探しですか」

「……」

決め付けるな、と言ってやりたかったが、事実だったので、反論も出来ない。
背の高い男を下から睨め付けるだけで精一杯だが、痛くも痒くもないのだろう。
むしろ、曹丕を弄るネタが出来たと、にやにやと更に意地悪く口角を歪める。

「さしずめ、贈り物の見当がつかないといったところですかな、いや、初々しい」

今ばかりは賈クのこの性格が恨めしい。
何の言い訳も出来ず、拳を握り締めて俯く。
すると、賈クの纏う雰囲気が変わる。

「…これは、俺が思ったより深刻だ」

揶揄うような空気を撤回した賈クが呟いた。
その声に顔を上げればしゃがんだ男が目線を合わせてくる。
怪訝な表情を浮かべると、微笑んではいるもなの、存外真剣に、賈クが言った。

「俺が、お手伝いしましょうか?」

「…手伝い?」

「そうです、まあ、司馬懿殿の好みまでは熟知してませんが、一般的な贈り物のアドバイスくらいは出来ますよ」

曹丕は目を丸くする。
賈クの申し出はまともで、有り難いものだった。
おそらく、この男がいれば、悩みは解決するだろう。
賈クが曹丕を侮っている様子はなく、本気で心配しているのだということも判る。
だが、曹丕は。

「大丈夫だ、自分で探す」

きっぱりと言い切ると、賈クが笑った。
まるで、その答えがわかっていたとばかりに満足そうに頷くと、曹丕の頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。

「賈ク、痛い」

「俺には冷たいのに、司馬懿殿の前ではまるで恋する乙女だ、妬けるねえ」

「戯れ事を…」

「曹丕殿、俺にもくださいよ、曹丕殿が選んでくれるならなんでもいいですよ」

「…、…そのうち、考えてやろう」

どうにも、自分を甘やかす大人が多いようだと、曹丕は笑った。



「仲達…渡したいものがある」
買い物に出掛けた日から数日経ったその週末に、司馬懿が訪れるのを待っていた曹丕は、部屋に招き入れてすぐ、そう切り出した。
あれから悩みに悩んで選んだプレゼントを、司馬懿に押し付けるように渡して、そっぽを向く。

「子桓さん、これは?」

「バレンタイン…いつも、貰ってるからな」

ぶっきらぼうに答えて少し後悔する。
こんな時くらい、殊勝にと思うが、これが精一杯だった。
開けてもいいですか?という言葉に頷くと、丁寧に包装を剥がしていくのを見守る。
小さな箱の中から姿を現したのは。

「ネクタイピン、ですか」

「…仲達に似合うと思って」

スマートなフォルムの、鈍く光る黒いそれ。
一目見て、司馬懿につけてほしいと思って、購入した。
しかしそれきり口を閉ざしてしまった司馬懿を窺う。

(迷惑…だったろうか…)

途端に不安が襲ってきて、曹丕は顔を歪ませる。
耐え切れず、身を引こうとすると、突然司馬懿が動いた。
長い腕が曹丕を引き寄せ、気付けば抱き締められていた。

「っ仲達…!?」

「有難う御座います、子桓さん…うれしい」

焦って名前を呼ぶも、司馬懿の抱擁は強くなるばかり。
それどころか、本当に幸せそうな声で感謝されて、かあ、と顔が熱くなる。

「よ、喜んでもらえたなら、いい」

そう返すことしか出来ず、しかしだからといって司馬懿を押し退けることも出来ない。
体を強張らせる様子を知ってか知らずか、ベッドに腰掛けた司馬懿は向かい合わせになるよう、曹丕に足を跨がせる。
太股に座る恰好になった曹丕の腰を抱きながら、蕩けそうな笑顔を浮かべた。

「ねぇ、子桓さん、どうしてこれにしたの?」

「え…あ、似合うと思って…つけてほしかったから」

「私のことを考えながら選んでくれた?」

「プレゼントなのだから、当たり前だ…」

「ふふ、可愛い……今はこれで、十分ですよ」

「仲達?」

ゆるゆると頭を撫で、ネクタイピンの表面を指でなぞり、呟いた言葉は、曹丕には届かない。
不思議そうに首を傾げる曹丕に、司馬懿はそれまでの空気を払拭するように、苦笑した。

「いいえ、見事に先を越されてしまったと思いまして」

「どういう意味だ?」

「実は、2月14日…平日ですが、ご都合が合えば、食事でもどうかと思っていたのですよ」

折角のバレンタインデーだから、たまには趣向を変えたくて、と言う司馬懿に、曹丕が否と答える理由はなかった。



無意識に触れていたことに気付いて、司馬懿は笑みを浮かべた。
曹丕がくれたネクタイピンを週明けの仕事に早速付けていた。
数日前の出来事を思い出すと今でも表情が緩んでしまう。

「あれ、司馬懿殿、見かけないネクタイピンですなあ、それが曹丕殿からのプレゼントですか」

しかしその幸せな気分も次の瞬間聞こえてきた声に台無しになった。
嫌々ながら声の主に向き直ると、そこには苦手な男がいる。
しかも、何やら聞き捨てならない言葉も聞こえたではないか。

「…賈ク殿、どういう意味ですか」

「いやあ羨ましい、俺も欲しいと言ったはずなんですがねえ」

「質問に答えろ」

「おぉ怖い、あんまり睨まんでくださいよ」

減らず口の相手をする気もないので、無言で睨みつけると賈クが肩を竦ませる。
降参だとばかりに手を軽く上げて、口を開いた。

「プレゼントを選んでいるところに偶然居合わせただけですよ」

この男が曹丕を気に入っていることは知っている。
いまいち信用し難いが、嘘は言うまいと軽く睥睨するだけにした。

「しかし曹丕殿は健気でしたよ、あなたに贈るものは自分で選ぶと、泣きそうになりながらおっしゃってねぇ、いや、眼福眼福」

おそらく誇張だとわかってはいるが、腹立たしい男である。

「ただあまりに思い詰めているんでね、元家庭教師として、軽くアドバイスをしましたが、それもわかったらしくて、相変わらず賢い子だ」

ねぇ、司馬懿殿。
得意げににやりと笑う賈クに、軽く殺意が芽生えるのは仕方ないだろう。
こめかみ辺りの血管が引き攣るのを懸命に堪えていると、賈クが耳元に口を寄せてきた。

「で、食いました?」

その内容に、遂に堪忍袋の緒が切れる。

「貴様、余程殴られたいようだな!」

「ははは、それはごめんです」

怒鳴るのと同時に賈クが身を翻してその場を去った。
その軽い調子に、司馬懿は大きく嘆息した。
忌ま忌ましくは思うが、追い掛ける気力も湧かないと、大人しく自分のデスクに戻る。

(食う訳があるか、折角ここまで待ったのだ)

まだまだ時間はある。
じっくりと食べ頃になるまで耐えるのも、楽しみのうちだ。
もう一度ネクタイピンに指を這わせて、司馬懿はその時に思いを馳せるのだった。








エンド







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クリスマスの続きっぽい
賈ク出張りすぎた
曹丕に現時点で恋愛感情はありません、あくまで感謝の気持ち
司馬懿は最後偉そうなこと言ってますがちょっと食いそうでした