夏休み佳話








世間で一般的な夏休みの過ごし方はどんなものだろうか。
学生には宿題等というものもあるが、例えば遠出をしたり、ゆっくり休んだり、普段出来ないことをする、というのが多いのではないかと思う。
そう考えると、曹丕は夏休みを本当の意味で過ごしたことはないのかもしれない。
曹丕にとってこの夏の長期休暇は「学校に行かずに自宅で勉強する日」という認識しかなかったからだ。
誰かに連れられて出掛けた記憶はなく、一人で机に向かっていた。
そうすることが当たり前で、他の選択肢などない。
不満もなかった、はずなのに。

(何で、こんな…私は、おかしい)

明かりも点けずにいる暗い部屋の、ベッドの上で膝を抱える。
今日は土曜日だ。
本来ならば家庭教師という名目で司馬懿が訪れる日。
しかし、司馬懿は来ない。
数日前に連絡があり、急遽取り止めになったためだ。

『珍しく連休が取れまして、子桓様も御予定がおありでしょうし』

司馬懿はそう言って休みを取り付けると、呆然として何も言えずにいる曹丕には構わず、受話器越しに捲し立て、そのまま強引に電話を切ってしまった。
曹丕には、ぶつりと回線が途切れる音が、世界から隔絶された音にさえ聞こえた。
その時のやり取りを鮮明に思い出してしまい、ずきずきと胸が痛む。
耐えられず、倒れ込むようにベッドに横になると、そのまま指も動かせなくなった。

「私に何もないことは、お前が一番良く知っているはずだろう…」

ぽつりと呟いた言葉が己の胸を抉った。
知っている。
ならばそれが答えだ。
知りながら、曹丕に言ったのだ。
だからきっと、これは拒絶だ。
邪魔になったのだと、そういうことなのだろう。
離れなければならない、頭ではそう理解しているはずなのに、何処かがそれを拒否している。
これ以上付き纏えば、嫌われてしまう。

(何も考えたくない…)

脳が思考を拒否する。
このまま沈んで消えてしまいたかった。



そのまま数日が過ぎた。
あと一週間程でこの長期休暇も終わる。
曹丕は相変わらず、布団に包まって無気力な日々を過ごしていた。
勉強も手につかず、無為に時間が過ぎていく。
食事すら満足に喉を通らない。
この気持ちもいつか整理がつくのだろうか。
そんな日が来るとしたらいつだろうか。

(それまで私は生きているだろうか?)

何とも馬鹿な考えだが、曹丕はなかば本気だった。

(いっそ、このまま…)

「曹丕くーん」

ぎゅっと体を丸めたところで、場違いなほど明るい声が響いた。
あまりにも近くから聞こえたそれに思わず跳ね起きる。

「っおま、え…!」

「やあ、元気?」

ベッドに腰掛けてにこにこと笑う美形の男。
曹丕は呆然としたまま良く見知ったその男を見上げる。

「郭嘉…どうやって…」

「まあまあ、気にしない」

読めない表情の男の名は、郭嘉。
曹操の腹心だが、病を患い、現在療養中の筈だ。
しかしそれを感じさせない穏やかさで、郭嘉は答えた。

「……ふん、まあいい」

一つ深呼吸すれば、取り乱したことが恥ずかしく思える。
気を取り直してベッドから立ち上がると、郭嘉に向き合った。

「何の用だ」

「久し振りに曹丕君とお話ししようかと思って」

「……」

何という胡散臭さだろう。
曹操の周りにはこんな人間ばかりだ。
爽やかさで中和される分、賈クよりはマシだろうか。
胡乱げに郭嘉を見遣ると、肩を竦められる。
とりあえず座ろう、と促されて再びベッドの上に逆戻りした。
相手の言葉を待っているとそれまでとは打って変わって、少しだけ真剣な表情の郭嘉が見えた。

「司馬懿君なんだけどね」

「っ…」

今最も聞きたくない、最も聞きたかった名前だ。
思わず息が詰まる。
動揺が表に出ないよう、何とか堪えたが、上手くいっただろうかと不安になる。
しかし郭嘉からの指摘はないので、何食わぬ顔で先の言葉を待った。

「仲達がどうかしたのか」

「うん、陳羣君から聞いたんだけども」

表面上は平静を装いながらも、今にも顔を歪めてしまいそうになる。
陳羣と司馬懿は同僚だ。
特に陳羣の実直で誠実な人柄は、曹丕も良く知るところである。
そんな彼が言ったことならば、真実味もあるだろう。
何を話したのか、怖い。

「今、どうやら寝込んでいるらしいんだよね」

「なっ…病気なのか!?」

しかし、告げられたのは予想だにしなかった事実だった。
身を乗り出して郭嘉に詰め寄るが、男は焦った様子もなく曹丕を制し、ゆったりと話を続ける。

「ほら、最近暑かったり寒かったりしたから、忙しいのと重なってとうとうダウンしちゃったんだって」

「いつから……」

「一週間位前からって言ったかな?」

それはちょうど、司馬懿から連絡があった日だ。
電話で話した様子ではわからなかったが、その時にはもう体調を崩していたのか。
ただ、曹丕に悟られぬようにと司馬懿は考えたのだろう。
それだけはわかった。

「秘密にしてほしいと言われたんだけどね、それは良くないと思って」

俯きながら考え込んでいると、郭嘉が声を掛けてきた。
顔を上げれば、優しく微笑む美男子の顔が見えた。

「馬鹿だね、司馬懿殿は。あなたを泣かせてまで、格好つけようなんて」

あやすように頭を撫でられる。
まるで幼い子供にする行為に、普段なら烈火の如く怒りを露わにする曹丕も、郭嘉には弱い。

「でも彼の気持ちも判ってあげて欲しいな……自分が悪者になって、あなたを心配させまいとして、考えた結果だったんだよ」

そうして言い含めるように説得されれば、負の感情など霧散してしまう。
これが彼なりの激励なのだとわかるから。
じわりと滲みそうな涙を何とか堪えて、不器用ながら笑みを見せれば、郭嘉も慈しむように一層顔を綻ばせた。

「陳羣に怒られるぞ…」

「それは困るなあ」

全然困ってなどいないくせに、とは言わないでおく。
軽口に応えてくれる郭嘉の存在が今は有り難い。

(会いに行こう)

そう決意すると心も軽くなる。
折しも今日は金曜日で、明日は土曜日だ。





「曹丕さんには言わないで下さいと、あれほど言ったというのに、あなたは本当に…人の話を聞いていないのですか?」

訪れた陳羣の住まい。
呆れと苛立ちとを隠しもせず、とにかく怒っているのだと主張したいらしい彼が、はあと溜息を吐く。
しかしそんな小言も聞き慣れている郭嘉は、笑って言葉を返した。

「聞いていなければ曹丕君にも話せないとは思わない?」

「揚げ足を取るのは止めていただけませんか!」

直ぐさま怒鳴り返してくるのも予想通り。
むきになる真面目な青年の姿を楽しんでいる自分は人が悪いと思うが、最早これは趣味だ。
しかし、陳羣限定である。
そんな己の心情など知る由もないだろう彼は、未だに溜飲が下がる気配がない。
ぶつぶつと文句を言い続けるのに苦笑を漏らしながら、律儀に出された飲み物に口をつける。
曹丕の元に真実を告げに行った帰りである。
司馬懿の現状を、曹丕に伝えたかったのだろうと思った。
だからこそ陳羣は、敢えて郭嘉に話した。
そしてその意図を知りながら、知らないふりをして曹丕に会いに行って、更にこうして愚痴まで聞いている自分は、なんとマメな男であろうか。

(本当にね、あなただけだよ)

相手に合わせて、ゆっくり、少しずつなんて、このかわいいひとにだけだ。
飽きずに続く不平不満を聞きながら、昼下がりの一時は穏やかに過ぎてゆくのだった。





以前聞いたことのある住所だけを頼りに辿り着いたマンション。
曹丕が暮らすそれと遜色のない外観のその建物に少しだけ怯む。
やはり司馬懿は自分のことが嫌になったのではないか、こんなところにまで来て迷惑ではないかと、今にも踵を返してしまいそうになるが、何とか踏み止まり立っている。
司馬懿に連絡はしていない。
返事がなかったら、と考えると怖くて、非常識と知りつつも来てしまったのだ。
あとは、少し勇気を出すだけだと、意を決してエントランスに入る。
部屋番号を呼び出せば、もうあとには引けない。
震える指でボタンを押すと、暫し静寂が訪れる。
もしかしたら応えてもらえないかもしれないと、長い沈黙の中で挫けそうになるのを堪えていると。

『はい』

声が聞こえた。
それは紛れもなく司馬懿のもので、待ち焦がれていたというのに、刹那言葉を忘れる。
何も返せずにいたら、今度は怪訝そうな問い掛けがなされる。

『どちら様ですか?悪戯なら――』

「っ私だ、仲達…曹丕だ」

『え……子桓さん!?』

切られてしまいそうになり、慌てて名乗れば、途端に相手の声音が変わる。

『何故このようなところに…!』

混乱しているのだろう、いつになく大きな声を出す司馬懿に、曹丕は静かに呟く。

「…まえに…」

『子桓さん…?』

すると、司馬懿が伺うように名前を呼ぶ。
今度はちゃんと聞こえるように、はっきりを口にする。

「お前に…会いに来た…」

心臓が激しく音を立てている。
拒絶でも何でもいいから、応えてほしい。

『…とにかく、上がって下さい』

その思いに気付いたのか、司馬懿は曹丕を招き入れる。
それに合わせて、エントランスからエレベーターに繋がる扉が開く。
ぎゅう、ときつく拳を握り、曹丕は足を踏み出した。



エレベーターが開くと、そこで司馬懿が待っていた。
いつもの涼しげな顔でその感情は読み取れないが、久し振りに見た男は少し窶れていた。
おずおずと司馬懿の前に立つ。
実際に顔を合わせると、やはり気後れしてしまう。
視線がいたたまれなくて、目を反らしながらぼそりと喋る。

「…急に、すまない」

「いえ、お気になさらず…どうぞ、こちらへ」

淡々とした様子の司馬懿に、体が強張る。
先導して歩き始めた男についていけば、すぐに部屋に辿り着いた。
開かれた扉の中に入り、ぎこちなくも靴を脱ぐと、奥へと招き入れられる。
広いリビングのソファへ座るように促されたところで、ようやく少しだけ落ち着いた。
しかし、これからどうしたらいいのかわからない。
本当は、司馬懿に何を言いたいのか、否、何かを言いたかったのかもわからないのだ。
会いたいという、それだけの気持ちでここまで来てしまった。
ソファの上で萎縮していると、目の前のテーブルにマグカップが置かれる。
温かい湯気を立てるそれから視線を辿ると、自分もカップを手にした司馬懿がいた。
喉から声が出かけて、それでも音にならずにひくりと引き攣る。
それでも無理矢理言葉にしようとしたが、それは男に制された。
曹丕の隣に腰掛けた司馬懿を見つめていると、彼はゆっくりと話し始める。

「申し訳ありません、嘘を吐いて」

驚いて瞠目すると、ここに来たということはもうご存知なのでしょう、と司馬懿が苦笑する。
先程とは違う意味で何も言えない。
司馬懿は悲痛な笑みを浮かべたまま、淡々と言葉を続ける。

「言い訳にしか聞こえないでしょうが、あなたを心配させたくなかったんです」

それは、郭嘉に聞いたことだ。
そして、そのあと耳に入ってきたのは、知り得なかった真実。

「あなたとどこかに出掛けたくて、休みを取ったんです」

マグカップを手持ち無沙汰にゆらゆらと揺らす仕種にあるのは、曹丕からの視線を避ける意図だろうか。
いつも教え子を諭すようなしっかりした口調ではない、どこか弱々しいそれ。

「しかしお恥ずかしい話ですが…その所為かやけに仕事が多く、無理をして残業をしたら、この為体です」

もう歳ですね、と冗談めかして空笑いしたものの、それもすぐに溜息に変わった。
片方の手で額を覆い、俯く。
マグカップを握る手は、力を入れ過ぎたためか、指先が白くなっていた。

「隠すことに精一杯で、あなたを傷付けるなんて言われるまで気付きもしなかった」

声は変わらず穏やかで、特に感情が昂ぶった様子もないのに、何故こんなにも聞くだけで苦しいのか。

「あなたに嫌われても、罵倒されても、文句を言えない」

胸が締め付けられる心地というのは、今の気持ちを言うのだと思う。
司馬懿の慙愧の念が伝わり、苦しい。

「本当に、申し訳ございませんでした」

頭を下げ、祈りを捧げるように目を閉じる。
まるで懺悔のようなその姿は、曹丕からの赦しを請うているのか。

「お前は馬鹿だな…」

はあ、と大きく息を吐く。
司馬懿が慌てて顔を上げた。
絶望に染まった司馬懿の表情。
しかし、それは曹丕の顔を見て、唖然としたものに変化する。

「子桓さん…」

「いや、私も愚かだった…お互い様という奴だろうか?」

曹丕は笑っていた。
司馬懿が浮かべていた自嘲するようなものではない、心からの微笑み。
体の向きを変えて司馬懿と向き合う。
そして今日初めて、しっかりと目を合わせた。

「仲達が、私のためを思ってしたことではないか…何を恥じることがある」

こちらを見つめる司馬懿が、泣きそうになっていると思った。
彼も曹丕の言葉を聞いて、何かを思ってくれているのなら、嬉しい。

「でも…次からはちゃんと言ってほしい…それだけは…悲しかった」

勿論、最初は寂しかったし、辛かったけれど、嫌われた訳ではないとわかったから、いい。
それどころか、曹丕のことを考えていてくれたなんて、夢のようだ。
司馬懿の弱った姿も見ることができたのは、不謹慎だが、嬉しかった。
彼の初めて見る姿を見て、曹丕も司馬懿に何かできればと、そう思ったのだ。

「今はしっかり体を休めろ…それで、治ったら、その時は」

曹丕は僅かに逡巡する。
だが、何でも司馬懿に話してほしいと言ったのだから、自分も言わなければならない。
ずい、と顔を近付けて、思いの丈をぶつける。

「どこかに、連れて行ってほしい…」
それは、人によっては随分可愛い我が儘だが、曹丕してみれば、違う。
それこそ嫌われるのではないかというリスクを孕んだ、今出来る最大の我が儘。
じっと司馬懿を見つめながら、言葉を待つ。
曹丕の言葉を黙って聞いていた男は、ずっと手にしたままだったマグカップを傍らのテーブルに置き、ようやく肩の力を抜いた。
そしてそのまま曹丕の背中に腕を回し、抱き寄せる。

「えぇ、すぐに治してみせます」

その声はいつもの曹丕を甘やかす力強いものだった。
司馬懿の腕の中で曹丕はほうと安堵の吐息を漏らす。

「子桓さんはとても強くなりましたね」

「仲達のお陰だ…」

褒められると照れ臭い。
だが、勇気を出して良かったと思う。

「今日は情けないところをお見せしてしまいましたね」

幻滅しませんか、と司馬懿が言う。
曹丕はゆるゆると首を横に振った。

「しない…少し、可愛かったし」

「あなたにそう言われると…新鮮ですね」

くすくすと笑う司馬懿に、曹丕もおかしそうに笑った。





「体調はもういいのか?」
「えぇ、本当は出勤してもいいんですけど、陳羣殿がこれを期に溜まっている休みを消化しろというので…それに」
「それに?」
「休むといいことがあると言うので…」
「あったのか?」
「はい、とてもいいことがありました…子桓さんが、会いに来てくれました」
「……先程より余程恥ずかしいぞ…」








エンド






++++++++++

夏休みの二人でした
一応くっつけるまで続けるつもりなんですけどくっつくんですかこの二人
陳羣と郭嘉はただの趣味です
猛将伝おいしすぎる