クリスマス終話








いつまでもそんな日々が続くなどと思っていた訳ではないけれど。
それでも、あまりにも唐突に訪れた終わりが曹丕に齎したのは、悲しみと、それから。



目の前に聳える白いクリスマスツリー。
ライトアップされたそれはシンプルなオーナメントで飾り立てられ、夜の街の中央で、煌びやかに輝いている。
そしてツリーに負けじと夜空を照らすイルミネーション。
氾濫する光が眩しくて、目に痛い。
今日はクリスマスイブだ。
イベントごとに浮かれる人で賑わうこの日、曹丕は最も混雑する大通りに来ていた。
日が落ちて空を夕闇に染めてからしばらく時間が経ち、もう時刻も遅いというのに、人の数は減る兆しを見せない。
温めあうように寄り添う恋人たちや、帰路を急ぐサラリーマン、はしゃぐ学生など、一様に幸せそうな人の群れの間を縫って、曹丕はひたすら歩く。
目的はない。
強いて言うならば、クリスマス色一色に彩られた街を歩いてみたかった、だろうか。
己の心境を言葉にしてみて、曹丕は内心、くすりと笑う。
一面飾り立てられ、人々で溢れ返る街にいることなど、昔はできなかった。
中に入ることもできず、柔らかい光を遠くから独りで見なければならない自分が、惨めに思えてしまうから。
それなのに今は、自分からこうして光の中に飛び込んでいこうとしている。
こんな風に思えるまで、時間はかかったが、もう悲しくはなかった。
曹丕に格段の変化を齎したもの。
そのことを考えると、色々な感情が曹丕の胸を襲ってきて、複雑な気持ちになる。
時にくすぐったくて、特に甘くて、時に苦しい。
そして、今日みたいな日に訪れるのは、決まって悲しい感情だ。
優しい記憶を思い出してしまうから、余計に辛い。
唐突に寒気を覚えて、曹丕は体を縮こまらせて、マフラーに顔を埋めた。
強くなったつもりだが、まだまだ脆い自分。
眉間に皺を寄せ、立ち止まりそうになる足を動かしながら、自分を叱咤するように思い出すのは、いつも数年前のあの日のことだ。



「え…」

思わず声が漏れた。
まさに、呆然といった心情だ。
男も、苦い表情をしていたが、曹丕の目には入っていなかった。

「今、何て」

「あなたの家庭教師を続けられなくなりました」

「なん、で」

「海外支社に転勤が決まったんです」

あれは、司馬懿と出会って何度目のクリスマスのことだったろう。
その日はある時突然訪れた。
それは微温湯のような日々の終わりの日。
淡々と受け答えをする声に、曹丕は周囲が闇に包まれる錯覚に襲われた。
男の言葉の意味するもの。
男が、司馬懿が、離れていくということ。

「……うそ」

「…本当のことです」

信じられず、否、信じたくなくて呟いた言葉も、否定される。
頭ががんがんと痛い。
どこか冷たい雰囲気の司馬懿に、唇が震えて上手く喋ることができない。

「捨てる、のか、結局」」

「違います、子桓さん」

「違わない!」

感情の昂りを抑えきれずに叫ぶ。
こんな風に責めたい訳ではないのに、混乱して、自分が何をしているかわからない。

「もういい、勝手にすればいい」

「話を聞いてください」

「いやだ!」

「子桓さん!」

「っ!」

強い口調で名前を呼ばれ、びくりと体が震える。
恐る恐る司馬懿を見ると、その声音とは裏腹に、悲痛な顔をしていて、胸が締め付けられたように痛んだ。
押し黙った曹丕を見て、司馬懿が口を開く。

「決してあなたのことを見捨てるだとか、見離すだとか、そういうことではないのです」

司馬懿は曹丕から目を逸らさない。
曹丕も司馬懿から目を逸らすことができない。
その眼差しは真剣そのもので、気圧されてしまいそうになる。

「ずっとあなたのことを見てきました」

先程とは打って変わって、司馬懿の声は穏やかだ。
だが、その中には確固たる意志が宿っているように思えた。
その真意は曹丕にはわからないけれど。

「できれば、ずっとそばで見ていたかったのですけれども、それでは駄目だ」

言葉を認識する度、胸がじくじくと痛み、息苦しい。
それでも、じっと耐えながら、次の言葉を待つ。

「私はあなたにもっと強くなってほしい――この先ずっと、あなたと一緒にいたいから」

曹丕は衝撃を受けた。
司馬懿は遥か先を見ている。
その上で、自分から離れるという。

(すごい…)

自分がすぐ近くしか見ていないと思い知らされた。
司馬懿は眉尻を下げて力なく笑う。

「酷い男だと思うでしょうね…でも、これは私の紛れもない本心です」

距離が縮まり、そっと手を取られた。
胸の奥がじくじくと痛み、目のあたりが熱くなる。
でもそれは、苦しみに満ちたものではないことは判った。

「もう私がいなくてもあなたは大丈夫です」

「仲達…」

視界が滲む。
漸く出した声も掠れていた。

「私はあなたを信じています…それだけは、判ってください」

「わか、った」

「ほら、泣かないで…」

細いけど長くて骨張っていて、優しい指が涙を拭う。

「必ず、また会いに来ますから」



その言葉を残して、司馬懿は曹丕の傍からいなくなった。
出立まではいくらかの猶予があったはずだが、準備に忙しいのか、その後は一度も会うことなく、人伝に司馬懿が異国に旅立って行ったことを知った。
納得はしたものの、暫くは喪失感から情緒不安定に陥りかけた曹丕だが、それを支えたのは周りの人々だった。
賈クや郭嘉、陳羣、三成やその知り合いの左近まで親身になって励ましてくれた。
その中で、曹丕は決めたのだ。
強くなろうと。
自分のために、自分の周りの人のために、そして、司馬懿のために。
きっと司馬懿は、曹丕のことを信じて、離れていったはずだから、と。
それから数年。
以前の自分に苦笑してしまうくらいには、成長したと思う。
曹丕の世界は司馬懿を中心に回っていて、それがなくなってしまうことはつまり世界の崩壊を意味していた。
今思うと恥ずかしいけれど、司馬懿がいたから曹丕一人だけの世界が少しだけ広がって、司馬懿がいなくなることで、その世界が更にかたちを変えたのだ。
感謝してもし足りない存在。
それほどまでに尊敬する人だから、いつか認めてもらえるように、また会う時に恥ずかしくないように、今はただ努力するだけだ。
誓いも新たに、曹丕は目の前のツリーを見上げた。
実のところ、司馬懿と二人でこうやってツリーを見たことはない。
それでもこの日は大切な日だからと、クリスマスケーキを買ってみたり、こうしてイルミネーションを見に来たりと、決意を忘れないようにしている。
同時に辛い気持ちにもなるけれど、強くなりたいから。
はあ、と白い息が漏れた。
コートの中まで染み渡る寒気が、体を芯から冷やしていく。

(そろそろ帰ろう)

風邪などひいたら、みんなに心配させてしまう。
陳羣あたりには説教をされそうだと、強ち間違いでもなさそうなことを思いながら、来た道を戻るため、踵を返す。
中央に聳えるツリーを見に行く人々の人の流れに逆らって、ゆっくり歩いていく。
それでも暫く進めば大通りを抜け、イルミネーションが途切れた。
途端に侘しい印象になった景色を見ながらも、足は止めない。
人も疎らになり、街の喧騒も遠ざかった住宅街。
目指すのは自宅であるマンションだ。
そういえば、以前司馬懿がマンションの外から電話をかけてきたことがあった。
あの日を切欠に、二人の距離は縮まっていったように思う。
スーツに黒いコートを着た司馬懿の姿は鮮明に思い出せる。
細身の体によく合ったシルエットの立ち姿に酷く憧れを抱いたものだ。
携帯電話を持ちながらこちらを見上げる真っ直ぐな視線は、今考えるとまるでドラマか何かのワンシーンのようで。
気障な奴だと悪態をついてみても、結局格好いい、という結論に行きついてしまうあたり、どう足掻いても司馬懿という男には敵わないのだと認めて久しい。
本人が言ったように、酷い男だと、どうにか嫌おうとしても、それ以上に良いところを再認識させられ断念すれば、否が応でも理解せざるを得なかった。
なんだか今日は、よく司馬懿のことを思い出す。
クリスマスだからだろうか、それとも何か理由があるのだろうか。
そんなことを考えていたら、気付ければ見慣れた道を歩いていた。
冷え切った体が無意識に歩調を早める。
マンションの前の大通りに出るための角を曲がる。
建物の灯りや街頭でそこだけ明るい一帯の、ちょうどマンションの前に、佇む影が見えた。
どくりと心臓が脈打つ。

(まさか、そんな)

こんな都合の良いことがある筈がない。
それでも、頭は勝手に期待をしてしまう。
そこに、待ち望んだ人がいると。
ゆっくりと震える足を踏み出す。
近付くにつれて露わになる影の正体。
叫び出しそうになるのを堪えるが、足早になるのは止められなかった。
影がゆっくりと振り向く。
明かりに照らされた顔がはっきりと見える距離まで近付いて、立ち止まる。
もう、疑う余地もない、そこにいるひと。

「こんなに寒いのに、どこへ行ってらしたんですか…風邪を引いてしまいますよ?」

穏やかな笑みを浮かべる男。
全く記憶通りという訳ではないけれど、見間違えるはずもないひと。

「……仲達!」

とうとう我慢しきれなくなって、名前を呼んで駆け出した。
抱き付くと、恐らく男も暫くそこにいたのだろう。
その体は酷く冷えていたが、曹丕の心はじわじわとぬくもりに包まれていく。
背中に腕が回され、抱き締められたのだと判った途端、じわりと涙が滲んだ。
ぐす、とすすり泣くと、きつく腕の中に閉じ込められる。

「仲達…ちゅうたつ、あいたかった…」

「私もですよ…背も、伸びましたね」

冷たい指が髪の毛を撫で付け、梳く動作を繰り返す。
それだけで満たされる思いがして、更に涙が込み上げてくる。
どれほどそうしていたかわからない。
それでもまだ名残惜しいが、これからまだ時間はたくさんあるはずだ。
ゆっくりと顔を上げた曹丕は、精一杯の笑顔で、口を開いた。

「おかえりなさい、仲達」

それを見た司馬懿の顔も、優しく綻んだ。

「ただいま、子桓さん」

こうしてクリスマスがまた、曹丕にとっ忘れられない日となったのだった。








エンド






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背景画像を付けました
そして多分このシリーズは一応終わり…みたいな…
もし書くとしたらくっつく話かくっついた後の話を蛇足的に
(主に司馬懿が)犯罪っぽい二人にお付き合いいただきありがとうございました