猫になる








例えば猫のように、ただ側に居て愛されたいと思ってしまったことも事実なのだ。



その日司馬懿はいつもと違う覚醒を迎えた。
一言で違うと言うと大したことはないように思えるが、その違いは司馬懿の思考など及びもつかないものだった。
まず、周囲の景色が違う。
自分の部屋ではないそこは、初めて見る場所のようだった。
そして体勢が異なる。
何故か自分は掛布の上で寝ている。
冷たい空気が体温を奪っているのがその証拠である。
極めつけは体が違う。
何と目に入っている自分の手は、獣のものになっていたのだ。

(…夢だな)

司馬懿は心の中で冷静に呟いた。
これが現実であるとは俄かに受け入れ難い。
否、そうであるはずがない。
なにより夢ならば全て合点がゆく。
見知らぬ場所にいるのも、獣の姿であるのも、夢だからだ。
そうとわかれば焦ることはない。
そのうち目も覚めるだろうと一つ欠伸をして体を伸ばした。
自分はどうやら黒猫らしい。
体毛は黒く、朝の光の中で毛並の良いそれが鈍く輝いている。
室内にいるということは自分は飼われているのだろうか?
だとしたらこの白い布はその誰かの寝具であろうか。
ぐるりと周囲を見渡せば、己の頭上の方に塊が見えた。
人の形をした膨らみはこの寝台の持ち主に違いない。
興味をそそられて司馬懿は起き上がり、白い波の上を歩く。
四つ足での移動には酷く違和感を覚えた。
寝ている時にも感じたが、寝台は頼りない程に柔らかい。
高貴な人のものなのだろうかと、足を踏み出す度に沈む感覚にも難儀しながら、枕元に到着した。
此方に背を向けて眠る人の髪は美しく、墨を流したように白い布の上にたゆたっている。
もしや女人の部屋なのかと身構える司馬懿の前で、目の前の人がゆっくり寝返りを打った。
巻き込まれないよう距離を置きながら漸く顔の見えたそのひとは。

(曹丕殿!?)

司馬懿の、現実での主だった。
動揺を抑え切れぬまま、混乱した頭でかの人の寝顔を見つめる。
眠っている時でさえ整った顔は、しかし起きている時よりも幼く見える。
きっと鋭い目と眉間の皺が見えない所為だろう。

(こうして見ると可愛いげのある顔をしているではないか)

初めて目にする無防備な表情に思わずそんなことを思っていると、曹丕の瞼が震えた。
うっすらとその目が開かれる。
瞬きを繰り返し、睡魔と戦う様子を観察しているうち、ぼんやりと焦点のあった曹丕と目が合った。

「…ねこ…」

寝起きのかすれた声が不明瞭に言葉を紡ぐ。
しばらく存在を確かめるように見つめられたのち、手が伸びてきて司馬懿の頭に触れた。
身体中余すところなくその手に撫でられて、心地良さに不本意ながらも喉が鳴る。

「とんだ闖入者だ…この国の警備も考え直さねばな…」

どうやら、自分は主に飼われている訳ではないようだった。



すっかり目が醒めた曹丕の腕に抱かれ、執務室に向かう。
しかし朝食を取る姿を見ていない。
今度会ったらしっかり食べろと窘めておこうと誓う司馬懿である。
室に着くと曹丕は早速仕事を始めた。

「大人しくしていよ」

傍らに猫を侍らせながら。
よりによって寝室に侵入した不審な自分を、曹丕は外に投げ出しもせず何故だかここまで連れてきた。
しかもしっかりと胸に抱いて。
即刻追い出されると思っていた司馬懿には想定外のことであった。

(猫が好きなのであろうか?)

理由がわからず困惑した司馬懿も、寒空の下に放り出されるよるはましだろうと、今は体を丸めてゆったりと過ごしている。
本来なら仕事をしている時間に、主ですら働いているというのに、こうして何もしないでいるのは、夢の中であれ少し罪悪感がある。
だが猫である自分に出来ることもなかろうと、この時間を享受する。

「……仲達は何故来ない」

しばらくしてからのことである。
曹丕の口から漏れた呟きにぴくりと耳が動いた。
確かにもう司馬懿が曹丕の元に出仕していてもおかしくない時間である。
しかし、多少驚いた。
司馬懿の印象では、曹丕は来るもの拒まずだ。
政務の間は声をかければ反応するものの、それを個体として認識しているのではなく、必要な情報を所持する竹簡が己に有効な情報のみを話している、程度に感じていると思っていたのだ。
曹丕にとって有益であるか否か。
だからこそ、彼の側にいられるのだと。
そうでなければ、躊躇なく捨てるのだと。
それゆえに自分は主の為に研鑽を積んで……。

(…違う!私は私の野望のために…)

混乱する。
しかし思考を止めるのは怖い。
結論を出すのが怖い。
遠くを睨みながら没頭していると、不意に体を抱き上げられた。
突然のことに体が強張るも、直ぐに温もりに包まれた。
どうやら膝の上に乗せられたらしい。

「あやつ、どうして来ぬのだろうな、わかるか?」

背を撫でながら曹丕が問うてくる。
自分はここにいる、と言いたかったが、にゃあ、という鳴き声になってしまう。

「寝坊でもしたか、それとも寒いから風邪でも引いたか。
私には冷えるから気をつけろと言っておきながら、おかしな奴だな」

曹丕がくすりと笑う気配がした。
柔らかい空気がむず痒い。
このひとはこのように笑うのか。

「来たら厭味を言ってやらねばな。己の管理がなっていない、など良いな」

それは効果的だと思う。
きっと言われてしまったら、落ち込む。
同意するように曹丕を見上げて鳴くと、お前も良いと思うか、とまた曹丕が笑った。

「そういえば、お前の名を決めていなかったな」

何がいい、と優しく耳を擽る声と体に触れる指先に、司馬懿の意識が霞んでゆく。
ああ、触れないで。
もっと触れて。

「黒…ではありきたりだな」

きっと眠ったら夢から醒めてしまう。
このままでいさせて。
目を閉じさせて。

「ああ、そうだ、良い名をやろう」

その名を呼ばないで。

「…仲達」

その声で、呼んで下さい。



「管理がなっていない」

「…仰有るとおりです」

目が覚めると、頭はすっきりしていたが、体が重かった。
家人に、熱は下がったようだと言われて、どうやら風邪を引いていたらしいと知る。
二日連続で休んではいられないと、慌てて曹丕の元に出仕すれば、言われたのが先の言葉である。
返す言葉もなくただ頭を下げると、病でも得たか、と問う声。
相変わらず涼しげな声だ。

「は…どうやら、そのようで」

「そのようというのはなんだ」

聞かれても、司馬懿も困る。
風邪を引いていた記憶がないのだから仕方ない。
己に残っているのは夢の記憶だけだ。
まさか猫になる夢を見ていましたとは言えず、曖昧に誤魔化す。
すると曹丕が筆を置いて、司馬懿に顔を向けた。

「何だ、自分のことだろうに、おかしな奴だな」

その表情は、夢の中で見た、優しい微笑みで、司馬懿は曹丕への想いを自覚せざるを得ないのだった。








エンド







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萌えもへったくれもない司馬懿が猫になる話でした。