「……これから、昭の元へ行くのか?」 話が終わるや否や、では、と足早に私の自室を退出していく息子の背中に声をかけた。 「はい。良く知ってらっしゃいますね。」 不思議そうに小首を傾げる息子に苦笑する。 嬉しそうな素振りと軽い足取りを、本人は気付いていなかったらしい。 全く仲の良い……否、良すぎる程に良い兄弟である。 司馬一族は他家に比べて兄弟の結束が強いと言うし、他にも片手に余る程の息子達や、 私自身にも兄弟はいたけれど、ここまで仲が良いのは他にはいなかったと思う。 「いや、何となくそう思っただけだ。 ……まぁそれは兎も角、師、おいで。」 手招きして呼べば、椅子に座す私の前に、息子が膝を折って跪いた。 じっとその意図を窺う彼に身振りで後ろを向かせた。 「髪が乱れておる故、直してやろう。」 「……父上があんな突拍子もない事をなさるからです。」 納得した表情で背を向けながらも、ちろ、と息子の目が文机の上に在る緑萼梅(リョクガクバイ)を恨めしげに見た。 年甲斐も無くはしゃいだ父に振り回された事に悔しく思っているのだろうか。 しかし睨まれた一方の梅は、素朴な素焼きの一輪挿しに生けられて、そんな視線など物ともせずに凛と咲いていた。 そういえば、まだ私が若かった頃、その気品さえ溢れるその佇まいに、 『まるで貴方の様ですな』と口説き文句まがいの事を、主であった人に言った事が有った。 そんな事をぼんやりと思い出せば、お陰で小さな悪戯をも思い起こしてしまって、ふふ、と小さく笑いが零れた。 それを聴き咎めたのであろう。 息子が梅を見るよりも恨みがましい目で父を睨んで来たので益々可笑しくなった。 「はて、そうであったかな?」 「そうですよ。」 冠を外すと、やや髷から解れた髪がはらはらと落ちる。 結び目に手をかけると、結い直し易い様にと言われずとも前を向く。 結い紐を解けば艶やかな髪が手に馴染んだ。 昔、主にもよく結って差しあげたものだと、またしても感慨に浸りながらも、手早く髪を纏め上げた。 ほんの些細な悪戯を添えて。 「……出来た。 さぁ昭の元へ行っておいで。きっと喜ぼう。」 「……?」 出来上がったと背を軽く押して立ち上がらせる。 にっこりと微笑んでやりながら扉まで送り出せば、息子は何か言いたそうな顔をしつつも首を傾げ傾げ立ち去って行く。 その息子の髪が予想通りの出来映えで、気分が良くなった。 扉を閉めて、箸が転がっただけでも笑う少女ではないのに、くすくすと一頻り笑った。 白梅夢境 「……し、司馬将軍? こ、此方にいらっしゃいますか?」 「……艾か?」 「は、はい、艾にございます」 どもりがちな呼び掛けに、甘美な夢から覚醒した。 白梅を水に活けて眺めている内に、ついそのままうたた寝をしてしまったらしい。 予想以上に疲れていたようである。 自分で言うのもなんだが、もう年だから仕方無いのかもしれない。 入れ、と側近を呼ぶ声も夢の時の様な若々しさは最早無く、多少悲しい。 「し失礼を致しました。お休み中とは、ぞ、存ぜず……」 呼びかけたのは己の側近の一人、ケ艾であった。 幾らか前に、吃音(どもり)があるものの、農政の才に特に優れた若者を抜擢したのだ。 喜ばしい事に軍事の才にも光る物があり、近頃では軍事にも政にも彼を重用していた。 その彼が心底申し訳なさげに入ってくる。 卒の無い所作は若さに溢れ矍鑠(カクシャク)としていて、あぁ昔は私もこのようであったかと苦笑が漏れた。 「あぁ構わぬ。 しかし私も年だな、体がすぐ疲れおる」 肩を竦めながら冗談めかしてそう言った。 側近もからからと笑って、全く真に受けた様子もない。 「魏国の大将軍 が何を気弱な事を、お 仰いますか。ま、まだまだ、お若いでしょう、に。 き きっと長逗留の、つ、疲れでございますよ。早く帰還したいもの、です」 「全くだな……して此度は何用だ?」 「は、こ、此方の書簡、に 将軍の決済をい戴きたく……、」 側近が書簡を差し出す。 それを受け取りながら、まだ相手が何本か書簡を持っているのに気づき、首を傾げた。 「そちらの書簡は?」 「こ此方は将軍の御子息方、に決済戴くしょ書簡にございます」 「師と昭に?」 「は。し しかし子上様の方、は自室に居らっしゃらず、どうした ものかと……」 側近は眉尻を下げて困っている。 思いつく所は探し尽くしたのであろう。 敬愛している兄が折角帰って来たのに、昭は一体何処へ行ったのだろうか、と思い巡らせている内に心当たりを思い出した。 推測でしか無いものの、一旦浮かんでしまえばそれ以外は考えられなかった。 きっと昭は、こっそりと兄の部屋にいる。 予定よりも遅くなった兄の帰還を、今か今かと待ち構えながら。 「……あぁ……、」 ちろ、と横目で白梅を見遣った。 生けられた白梅には、あの庭で折り取ったばかりの姿とは違い、不自然に枝が無い場所があった。 それを為した張本人である司馬懿は、ふ、と小さく笑みを浮かべた。 「良い良い。私が預かっておこう」 「……は?」 まさか司馬懿自身が預かると言い出すなど、露程にも考えていなかったのであろう。 一瞬、ぽかんとらしくもない醜態を晒してから、相手は慌てて言い募る。 「あ、いえ、しかし……、」 「今は放っておいた方が身の為だぞ? 馬に蹴られたくなくば、あと一更(二時間)は息子達に近づかぬ事だな」 「しっしかし! こ、此方は い、急ぎの」 「ならば代わりに私がやっておけば良いだけの事であろう。 ……ほれ、何をこの様な所で油を売っておる。職務がまだ有るのであろう? 早う、行かぬか」 その側近の慌てるさまを見ていた司馬懿は、くつくつと喉奥で笑いながら側近の抱えていた残りの書簡を奪い取る。 唖然とする側近を気にする事も無く、ひらひらと手を振って職務に戻れと命じた。 「はぁ……、そ それでは失礼、致し ます」 訳が判らないと言った様子で、後ろ髪を引かれる素振りすら見せながら側近が去る。 微かな音を立てて扉が閉まると、一人取り残されて、部屋は途端にしんと静かになってしまった。 しかし甘い香りの漂う中にいると、不思議と孤独などとは無縁のように思われた。 「……年を無駄に重ねてみるものですな? お陰様で多少の風流は判りましたよ。」 ぴん、と指先で白梅を弾く。 ゆらゆらと揺れる花を見ながら静かに目を閉じた。 次の会議までまだ幾許の時間が有った。 差し迫った戦況でも無し、暫し夢の続きを見るのも良いだろう。 甘い香りに眠りの縁へと誘われていく中、次の夢では願わくば、 曹丕に不風流であった臣下のこの成長をお褒め頂きたいものだと考えながら。 ――――――――――そして。 『仲達のそれは風流心ではなく、悪戯心と言うのではないか?』、と。 夢の中で曹丕にからかわれるまで、あと少し。 終 - - - - - - - - - - - - - - 漸く白梅シリーズ完結。何年かけてんですかって感じです。 しかも最後は予想外の懿+艾だし…。 あ、因みに流れとしては、 古夢→追憶→花釵冒頭・夢境冒頭→花釵→夢境…です。 …しかし…吃音、間違ってたらすみません…orz 仲達の側近ってこの人しか思い浮かばなかったからこんなことに…。 困る大きいわんこが書きたかったんだと思います。(←独断と偏見) 荀(荀ケの第六子)さんだと黒くなる気が…; 因みに、仲達の悪戯は丕様にやられた悪戯が元。丕様の真似っこしたかった仲達(笑) 夢境……夢を見ている状態。夢の中。(@角川様の新字源) 09/02/22 ikuri (にゃんにゃんにゃんの日…/もにょもにょ) 戻 |