籠に囲った美しい鳥は愛でても愛しても此処を去るか








逃げるか去るか此処に留まるか



 玉座の座り心地は悪くない。
 煩雑な日常の中で、思い出した様に、そう思うことがある。
 覇業を成し遂げて、世の中が安定しても、忙しいことに変わりない。そうした日々の中で、様々な事を思う。今日はそれが先刻の台詞だったというだけだ。
 居城の、長い、長い廊を曹丕は歩いている。時折すれ違う人々が頭を下げるのを手で制して、ゆっくり進む。目的地も約束もない。ただ歩いている。
 歩きながら、考えている。この場所を手に入れられたのは、司馬懿の存在に因るところが大きいと、常々思う。元は曹操に召し出された司馬懿は、何時の間にか曹丕の傍らに居る様になった。
 最初に会った時の事は覚えている。やる気なく挨拶する癖に油断ならない、と思ったものだ。
 その時から、司馬懿を気に入っていた自覚はある。
 司馬懿は、はじめは閑職に追いやられた、という意識が強かったらしく、嫌々此処にいる、ということを隠しもしなかった。曹丕はそれを気にはしなかった。興味深く見ている自覚があった。
 冷めている自分は嫌いではない。しかし、今迄に無く他人を気に掛けている自分にも、驚きが有った。
 そんな感覚を引き起こした司馬懿に、更に興味が湧いた。
 司馬懿に惹かれていく事は、心地良いものだった。何処か自分に似ていると思う事も有る。司馬懿が感じている以上に、曹丕は司馬懿を好ましく思っている。
 それは、司馬懿の気持ちが遠くにある時から、長く。
 曹丕は不意に立ち止まると、窓の外に目を遣った。目に痛い青さを持った空に惹かれる儘、窓に寄り食入る様に見つめる。そして以前、司馬懿が洩らした呟きを思い出した。

『如何なる青も、彼方を引き立てる為に在る気がする――――』

 聞き咎めると、本当に知らず知らずに出た言葉らしく、必死に言い繕っていたのを思い出す。
 司馬懿は、曹丕に仕えていく中で、自らの思いや在り方を変えていった様だった。
 自分の中では、司馬懿に対する思いは変わっていない。ただ、表には出さない様にしていた気がする。
 司馬懿には判っていたのだろうか。曹丕の矜持も本心も。
 全てを知って離れていくか、それとも止まるか。離れてゆくにしても直ぐではない。少なくとも自分には仕えているという自信がある。願望だと言ってしまえばそれまでだが、判るのだ。
 自分が死んだ後の事を断言は出来ない。この国から、司馬懿を開放しても良い、と思っている。
 しかし、止まり共に有って欲しい、とも思う。
 最後は司馬懿次第だと考えながら、命令する事すら思った。
 惑っている自覚があった。

「曹丕殿」

 司馬懿だ。

 ゆっくりと、視線を空から名を呼ぶ人間へと向ける。やはり司馬懿だった。

「何をしておいでですか?」

「空を見ていた、青いのだ、空が」

 問掛けながら歩み寄ってきた司馬懿をじっと見つめて、曹丕は答えた。
 窓の向こうを一瞥して司馬懿は静かに言う。

「青いものです、空は」

「夜は闇色をしている」

「夕刻は茜色ですか?」

「判っているではないか」

 そう言って、曹丕は空に視線を戻す。今日の空は、明るい色をしていると思った。日によって刻によって、空の色は変わるのだ。当たり前だが、美しいと思う。

「前に私に言った事を覚えているか、仲達」

 聞けば、何か至らぬことでも申しましたか、とお決まりの台詞が返ってきた。思い当たるのか本心から判らないのか、その声色からは判断できない。
 曹丕は以前かけられた言葉をそのまま紡ぐ。

「どんな青も私を引き立てる為にあると言った」

「……覚えておりませぬ」

 抑えたのか、僅かながらの苦々しさを含ませて、司馬懿が答える。それだけでも、未だに克明に覚えていると判るが、司馬懿は忘れた振りをし通すつもりの様だ。曹丕は意地悪く笑いながら、更に言う。

「あの時のお前は見物だった、珍しく必死に言い訳をしていたな」

「…その様な事、曹丕殿のお気に留めて頂く程のものでは御座いますまい」

「そんな事は無い、あれはお前の本心だったのだろう?」

 司馬懿の目を見つめて微笑む。その視線に耐えきれなくなった様に、司馬懿は顔を背けた。
 不機嫌にも見えるが、照れているのだろう。不思議と照れている表情が判り易いのだ、司馬懿という男は。

「…空など御自分の部屋から見えるではありませぬか?」

 暫く経って、漸く発した言葉がこれだった。如何にも司馬懿らしい言葉ではあると思った。
 司馬懿の顔は、窺う様に此方を見ている。それに別に此処ではなくても、という問いを遮って、曹丕は言った。

「此処が良いのだ」

「何か違うとおっしゃるのですか?」

「ああ、違うな」

 何が、と怪訝な目で問う司馬懿に、曹丕は楽しそうに答える。

「此処ならばお前に会える、それが理由だ、仲達」

 今は司馬懿と共に在れば良い。
 驚愕に目を見開く司馬懿の表情を見ながら、曹丕はもう一度愉快なのを隠さずに笑った。



慈しみ思い馳せ側に置く








エンド







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イヒ風味。無双の統一後、丕様は仲達がお気に。