盛りの花を手折る指と散らす風は緩やかに頬を掠める 此の花の最も輝く時に其の蜜を奪う罪を 眼下に広がる果ての無い大地を見下ろすのにはもう慣れた。 雨の日も晴れの日も、木枯れる日も花開く日も、未だ三国が犇(ひしめ)いていた日も魏の天下となった日も、その広大さは変わらない。 もっとも、初めて高い位置から見下ろした平原は、今の様に途方もなく大きくはなかったと司馬懿は思う。曹操に召し出されたばかりの頃は、漢室を抱えながら覇を唱える君主が狙う天下は酷く小さく見えたからだ。 春らしい陽射しに照らされている緑が目に眩しい。掲げた黒扇で顔を覆うと、隙間から大地が見える。 曹操は政治家として軍略家として、優れた人物だったと言える。しかし其の才を認めながらも司馬懿は彼の人に心服していなかった。 此の国に仕えているのは、己の力を誇示したかったからに過ぎない。此の国を強大にしているのは、あくまでも自分本意なものであり、決して主の為ではなかった。 其の証拠に、曹操が死に君主が曹丕に代わった時も、何も感じなかった。国が頂く主が代わったところで己が成すべき事は変わらないのだから。 「仲達よ」 「これは、曹丕殿」 背後から声を掛けられて振り向けば曹丕が居た。頭を下げ、僅かに後ずさる司馬懿だが、曹丕はそれを手で制す。もう一度会釈をする司馬懿を見やる曹丕の表情は、何時もながら読めなかった。 「何をしていた」 視線は遠くを見たままで曹丕が問う。扇を両手で支え目を伏せた司馬懿は言う。 「此の地を…彼方様の地を見て居りました」 ふわりと吹いた風が其の言葉を乗せて消えていく。曹丕の耳に届いたのか届かなかったのか、曹丕の口からは少しの間を置いてそうか、という呟きが洩れただけだった。 「曹丕殿こそ何故此方へ?」 「私が理由もなく私の地を見てはいけないか」 司馬懿の問掛けに答えた曹丕は皮肉な笑みを浮かべている。 「決して其の様な事は…申し訳ありませぬ、私の悪癖で御座いますな」 曹丕に気にした様子は無いが、そう告げてみせる司馬懿を横目で一瞥するのは牽制の為だろうか。司馬懿は刹那の鋭い視線を受け止めると足元に顔を向ける。 曹丕は全く自分の考えていた君主の枠に嵌らない人間だった。冷徹に命令を下したかと思えば的外れの事をして司馬懿を困惑させる。何も感じていなさそうな表情は、心の中を読む事を拒むが、そのくせ感情がやけに読みやすい。 単純な様で屈折していて、初めは途惑う事もあったが、次第に慣れてくると己の変化に気付いた。君主の移ろい等に興味も無かった自分が君主自身に興味をそそられたのだ。此れを変化と呼ばずして何と言うか。 「良い空だ」 「然様で」 曹丕は先程と同じ彼方を見つめながら呟いた。 其の目は広くを見、多くを己の物にする。そして存外遠くまで、遥か先までを見据えている。 「花の盛りも遠くはあるまい」 司馬懿の目線も自然と前を向く。其処には曹丕が見ている物と同じ空がある。 自分の変化を読み取った司馬懿は策を閃かせる理由を変えた。曹操の跡を継ぎ、魏を三国の頂点に押し上げようとしている曹丕を手助けするのも悪くないと思ったのだ。 未だ図り知れない此の男が登っていく姿を見るのも一興と。そして、其の押し上げた国を奪うのもまた面白いと考えていた。 それなのに曹丕はまたも司馬懿の思惑を裏切る事となる。 蜀との合戦の前の事、彼の人は司馬懿の喉元に剣の鋒(きっさき)を突き付けて高らかに言った。曹孟徳を継ぐのではない。己が手で天下を掴み取るのだ、と。 斬られる訳では無いと知りながら、司馬懿は身震いした。恐怖からではない、歓喜の様な驚嘆の様な、複雑な感覚が司馬懿を支配する。 微かに見た、側近の軍師の頸に刃を当てる君主の表情は、何時もの如く何も語ってはいなかった。 思えば初めて曹丕に相まみえた時に感じた直感は当たっていたと言える。 高みから見下ろす曹丕に傅(かしず)き、決まりきった文句を並べた。 「お前が司馬懿か」 「はい、お初にお目に掛ります、曹丕様におかれましては」 「つまらん挨拶等私にするな」 礼に則った心の無い言葉はその受取手によって一蹴される。司馬懿は表情を変えずに、非礼を詫びる台詞を口にする。 「は、失礼を仕りました」 「…ふ、気に入ったぞ、司馬仲達よ」 「勿体のう御言葉に御座います」 司馬懿が頭を下げると、曹丕は披風(マント)を翻して其処から立ち去る。あの短い邂逅で曹丕が何を感じたかは知る由もない。だが司馬懿には十分な時間だった。自分と何処か似ていて何故か似ていない、曹操とはまた違う意志を持った男に奥底で心揺らされるには。 「仲達」 曹丕は司馬懿の字を呼ぶと、不意に其の腕を掴んだ。前触れの無い行動には慣れている司馬懿も、思わず二の腕を捕える主の骨張った指を凝視する。 強くはない力で拘束する指は飼い殺しを好む嗜虐的な香を漂わせている。 「曹丕殿、」 「細い腕だ」 言葉を遮る様に呟かれた一言は、司馬懿の口を閉ざす。曹丕は片手で支えた其の細腕を、空いた手の指で布越しになぞる。上等な生地の着物は、曹丕の指を柔らかく擽る。 「此の様な腕で支障無いか」 「生憎十分事足りて居りますが」 「此の先、何事も無くゆけるか」 腕が痛んだ。 「私は安心して逝けるか」 抑揚の少ない声が、必要以上に執拗に腕を締め付けていた。撫でているだけの指が、腕を抉っている。 諸葛亮を打ち破り、蜀を滅ぼし、呉を呑み込んだ魏国の王となった曹丕は、もう司馬懿の気にする所ではなかった。 其の器と底知れなさに敬意は表していたし、曹丕が此の国の帝である限り、其の下で自らの知を惜しむまいと思っていた。しかし所詮は天下統一を成す事を標(しるべ)にしていた者である。魏の元に太平が続くと、生きている間位は思い込ませてやるのだ。其の後の事は、事後を託すであろう司馬懿の思うがままなのだから。 或る日の事、司馬懿を従えた曹丕は城下を見て回っていた。感情を表に出さない君主は、賑わう人々を眺めながら、何事も無いように司馬懿に告げる。 民の泣かぬ世を選べ、と。 司馬懿にはっきりとそう言ったのだ。 意味が判らないと返すのが限界だった。そんな司馬懿に曹丕は言う。 「私の目の届かぬ世となったら、好きにするが良い」 腕を掴んでいた指が、今度は司馬懿の顎に掛かる。 上げられた顔は覆い被さる曹丕の顔の間近にあった。冷たい目が、司馬懿が似た物を持っていると感じた曹丕の目が貫くのは、至近にある己の目だ。 「何時見ても美しい目だな」 「有難きお言葉…」 「此の目は良く見えるか」 曹丕は問う、己の見られぬ世界を見ていくのだろう司馬懿に。其れには応えない司馬懿は曹丕の目を見返す。顎を掴む指は冷たかった。 「だから気に入っているのだ、仲達よ」 「…子恒様」 暫く後、曹丕は口許を歪めて笑い呟いた。司馬懿は何とは無しに字を口にする。 「子恒様は盛りの花に御座いましょう」 「似合わない風流のつもりか」 「いえ…申し訳ありません、お忘れ下さい」 接吻けそうな距離での遣り取りが終わる。 曹丕はもう一度笑うと城内へ消えていった。司馬懿は再び空へと目をやる。 「盛りの花程厄介なものはない…」 散らせたくはない、離したくもない、しかし何時か無くなるのならば此の手で手折ってしまいたい。 司馬懿は腕に触れる。掴まれていた箇所が氷の如く冷たい、そんな錯覚に襲われる。 「彼方の言いなりになるのは癪だが」 呟きは残る、しかし運命なのだ。咲き誇る花を己が指で折らねばならぬ、甘美な運命なのである。 散り逝く花を待つ者に永い刻の罰を エンド ++++++++++ イヒのつもりで書いたけどそうでもなくなった小説。 無双4司馬懿伝の流れに沿ってお楽しみください。 戻 |