誰よりも強い眼差しは振るう刃の如く 其の瞳が見つめるのはただひとつと知りながら 趙雲はひとところに留まらず様々な軍勢を渡り歩く客将であった。 そう言えば聞こえは良いが正式に軍に編入させてもらえないだけとも言える。 しかし趙雲はただ流されるまま流浪していた訳ではない。 彼は己が仕えるべき人物を探していた。 己の全てを預けられるひとを。 そして巡り会ったのが劉備だった。 劉備にはよって立つ地はなく、大軍に対する軍勢もないが、彼に仕えたいと思った。 公孫サンのもとを離れ身一つでやって来た趙雲を、劉備は受け入れてくれた。 この先どうなるかは判らないが劉備に仕えていこうと思った。 劉備の配下には、かの人の人柄に惹かれ、好んでつき従っている関羽や張飛といった名高い武将がいる。 桃園三兄弟とも言われる彼等の話を聞くのを、趙雲は楽しみにしている。 三人が出会った経緯、くぐり抜けてきた修羅場、出会った人々など話の種は尽きない。 そう、その人物の事を聞いたのも関羽、張飛と談話している時だった。 「夏侯惇殿…ですか?」 何の話をしていたのか、不意に現れたその名前は舌の上を転がり、趙雲の口からすっと放たれた。 「そうだ、名は聞いたことがあろう?」 「はい、何度か噂に聞いたことがあります」 関羽に問われ趙雲は頷いた。 確かにその名は良く聞く。 曹操の従兄弟で、かの人の旗揚げ時からの理解者。 その武勇は名高く曹操軍になくてはならない存在だという。 呂布と戦った下ヒで目を射抜かれ、母に貰ったものを粗末に出来ぬとその目を食らった、などという嘘か誠か判らぬ逸話さえある。 「ではお二人は彼の方にお会いしたことがおありなのですか?」 「おう、曹操ンとこにいた時にな」 劉備軍はその時々で有力な軍に従ってきている。 趙雲が劉備と出会ったのも劉備が公孫サン軍につき従っていた時のことだった。 曹操のもとには呂布に下ヒを追われたのち、袁紹のもとに行くまでいたそうだ。 「どのような御方なのでしょうか」 「何とも気持ちの良い武人よ、腕も良い」 関羽が賞賛するならばそれは真実なのだろう。 「ちぃっとばかし曹操、曹操うるさいがな」 どうやら忠臣であるというのも正しいらしい。 「一度、お会いしたいものですね」 口に出したその願望は確かに事実だった。 最早隊列などなく追われるがままに進軍する人の群れを避けながら、趙雲は馬を駆けさせる。 隊をなす人々の殆んどは劉備を慕い付き従う民である。 劉備軍は民を連れて曹操から逃れるべく南下している。 戦力も士気も圧倒的に不利であることは否めず、かといって劉備に付いて行くことを躊躇する者など誰一人いない。 趙雲も決して絶望などはしていなかった。 しかしそれでも曹操の手から逃れることは出来なかった。 結果、劉備の妻子が攻撃に晒された。 趙雲は散々になった妻子を探し、何とか子の阿斗だけ胸に抱いて劉備の元へ急いでいた。 曹操軍を蹴散らしながらの単騎駆けは味方には頼もしく、敵には恐ろしく映る。 敢えて立ち向かってくる兵も消え、真っ直ぐ趙雲は進む。 胸に幼子を抱えて、主の元へ。 「待て!」 鋭い声が背を貫く。 並の武将にはない威圧感を感じる。 思わず立ち止まってしまいそうになる気迫にあらがいそのまま突き進むが。 「ッ!」 傍らを風が走り、武器が振り下ろされた。 何とかそれを竜胆ではね返す。 「止まれ!」 行く手を遮られて馬を止める。 ぎり、と睨めつけるも相手が怯む様子はない。 暫し睨み合いが続く。 「趙雲、其所の赤子共々降参しろ」 名を呼ばれた。 自分を恐れ退くような輩とは違う。 趙雲は身が高ぶる感覚に襲われる。 何とか気持ちを落ち着けながら言葉を返した。 「隻眼…貴方が夏侯将軍か」 半ば確信しながらの問いであった。 容貌や関羽、張飛から聞いていた人柄もさることながら、間違いないと思ったのは眼差しの鋭さだった。 決してひけを取らないという自信に満ちた視線の強さ。 「そうだ、逃げるか?」 揶揄するように口角を上げて挑んでくる相手に趙雲は体が期待に震えるのを感じた。 竜胆をきつく握り直すと相手に向かって突き付ける。 阿斗のことを考えればこんなところでしかも強敵を相手にすることは得策ではない。 しかし趙雲は知らず声を上げていた。 「相手にとって不足なし、来い!」 「それでこそ常山の趙子竜よ!」 愉しげに笑って夏侯惇が向かって来た。 すれ違いざま、重たい一撃が槍に降りかかる。 その攻撃を何とか受け止めながらこちらも槍を繰り出す。 体も心も興奮に震えているのが判る。 真っ直ぐに自分だけを狙う目も気に入った。 数回刃を交えたところで夏侯惇が距離をおいた。 互いに視線は外さないまま息を整え、腕の中の阿斗の存在を確かめる。 しっかりと抱え直しつつ相手の出方を見ていると、意外にも問いが飛んできた。 「劉備はそんなに好い男か」 「…?」 質問の意図が判らず、返答をしかねていると再び問われる。 「其所の赤子の父親は、貴様の武を賭すに足るかと聞いている」 「でなければ此処にいない」 その答えは自然を口から滑り出た。 「…即答か」 関心したような呟きが洩れて少し間が開く。 それは不思議な間隔だった。 武器を携えた二人が相対しながら生まれた形容し難い安定感。 それでいて弛緩することを許さない空気。 戸惑いながらも夏侯惇から視線を反らさずにいると今度は思案げな問いが投げ掛けられる。 「孟徳も知りたがっていたが…関羽にしろ、貴様にしろ、劉備の何が良いんだ?」 その問いに趙雲は躊躇いなく答えた。 「それは貴方と大差ない筈だ」 夏侯惇が目を見開くのが見える。 「貴方が曹操殿に従っているのと同じ。 あの方になら、私は全てを捧げて良いと思った、それだけのこと」 淀みなく答えると沈黙が下りた。 夏侯惇は動かない。 この隙に逃げることも出来ただろうが、趙雲も動かなかった。 「孟徳に仕える気はないか」 「愚問だ」 「そうだろうな」 夏侯惇が溜め息を吐いた。 今度の問いはあちらも答えが判っていたようだった。 夏侯惇が眩しいものでも見るように目を細める。 言葉を探しているのか暫し黙っていたがふと空気が和らいでその口許が笑みを刻むのが見えた。 「貴様は…龍だな」 どくりと心臓が脈打つ。 動揺を隠し切れずに声が震えた。 「何を…」 己は何に動揺しているというのか。 制御出来ぬ心を無理矢理落ち着けるべく、白くなる程槍を握る手に力を込める。 周章しているのが相手に露見しはしまいかと胆を冷やす。 しかし夏侯惇は趙雲の内心の変化に気付くことなく肩の力を抜いて刀を下ろした。 「行け、やる気が失せたわ」 そして先程まで対峙していたとは思えぬような事を言う。 これには趙雲も面食らう。 「同情など」 「同情ではない」 情けをかけているのかと声を荒げても否定されれば反論のしようもない。 それでも素直に従えるはずもなく逡巡していると虫でも追い払う様に手を振られた。 「早く行け、行かんと孟徳の前に突き出すぞ」 その言葉に、竜胆を握る手に力が入る。 直ぐ様手綱を操りじりじりとその場から移動を始める。 罠である可能性も否定できず慎重に距離を図りながら、視線を反らさずに。 しかし予想に反し夏侯惇は動かない。 本当に陥れる気がないようだと悟り、趙雲は一礼して馬を駆けさせた。 そのまま振り向くことなく走り抜ける。 魏軍の兵が行く手を阻もうとするが趙雲の敵ではない。 趙雲は勢いを緩めず、劉備の元へと駆けた。 「大義であったな、趙雲」 「劉備殿!」 後ろからかけられた声に慌てて振り返り拱手する。 そこには穏やかな顔の劉備がいた。 「よく阿斗を救ってくれた、礼を言う」 「そのような…勿体無いお言葉です」 劉備からの慰撫を受けると大袈裟でなく苦労など忘れてしまう。 趙雲は改めて劉備への忠誠を確かめる。 「そなたの身に何かあったらと思うと、胆が冷える…大事はないか」 「私は…」 問題ない、と続けようとして、ふとかの人とのやりとりが頭をよぎる。 あそこでもし夏侯惇が自分を見逃さなかったとしたら阿斗と共にこうして劉備の元へ無事に辿り着けはしなかっただろう。 そう思うと彼が気まぐれを起こしたのは僥幸だったのかもしれない。 しかし同時にやはり口惜しかった。 趙雲を見ることすらしなかった様子に微かに苛立ちさえ起こる。 (次、まみえる時は、目を反らせさせたりはしない) 「趙雲?」 主の声に我に返る。 自分は何を考えているのだろう。 思考を振り払うように頭を振って、何でもないと微笑む。 今はこの場所に戻ってこれたことを喜ぼうと明るく振る舞いながらも、心の奥底ではやはりあの強い視線に囚われたまま反らせずにいる己に、胸が熱くなるのだった。 此の瞳に殺されるならば何と甘美な誘惑か エンド ++++++++++ とてもいまさらですが、「大地に〜」の趙雲視点。 意識しちゃってますね、若いですね。 戻 |