交う風交わらず混じらず溶け合い絡み合い離れずさりとて去り行く
誰にも言わずに止まぬ思いを嗚呼今はまだ
「周泰、こんな風にお前と話すのは久し振りの様な気がする」
「…俺も…そう思います」
「そうだよな、お前も私も長い間こんな余裕は持てなかった」
合肥新城に魏を下し、白帝城に蜀を沈めた呉の元に天下は収束し、戦乱の世は終焉を迎えた。
勝利に酔う間もなくやって来た雑務に追われる日々もようやく終わり、この地の覇者となった孫権はこれまで付き従ってきた将を自室に招いた。同じく雑多な毎日をつい先日終えた周泰は、請われるまま孫権の自室に足を運んだ。
侍女がささやかな宴席を設えているのを見ると、周泰は僅かに微笑った様だった。どうしたのだ、と周泰に問えば、いえ、何も、と何時もの様に言葉少なに答えるだけだった。
周泰に席を勧め、自らも向かいに座ると、孫権は早速相手の杯に酒を注ぎ、これまで御苦労であった、とまずは周泰を労う。周泰が酒に口を付けるのを見て自分も酒を煽った。
それから周泰に近況を問い、相手の話に耳を傾ける。暫く彼の話を聞いた後で呟いたのが先刻の台詞である。
父と兄の意志を継ぎ、呉を強大にする中では本当に余裕などなかったと思う。思えば周泰は、呉を背負うことになる前から孫権の傍らにいた。初めて会ったのは、周泰が孫策の配下の将として呉にやってきた時であった。
「こいつは周泰。元は江賊だが信頼の置ける良い男だぜ」
そう言って孫策は孫権にも周泰を紹介した。見上げても顔が見えない程上背のある周泰に、幼かった孫権は最初脅えた。
こいつは弟の孫権だ、と紹介する孫策の言葉を受けて、長い刀を持つ寡黙な男はほんの少し体を屈めて孫権に名乗る。
「…周泰…字は幼平です…」
「わ、私は孫権、字は仲謀と申します…っ」
響く様な低い声に慌てて名乗り礼をすると、周泰は孫権様、と孫権の名を呟いた。その声は存外心地よく孫権の耳に届き、一瞬我を忘れる程の衝撃を持っていた。
「あ、兄上も周泰殿もお疲れ様で御座いました、ゆっくりと休息下さい」
しかしすぐに気を取り直した孫権は、頭を下げてそう声をかけると、一目散に自室へと駆けて行く。
その姿が周泰の目にどう映ったかは、孫権の預かり知らぬ所であるが、特に変わった出会いではなかったと思う。その証拠に、たまに擦れ違う以外に二人に接点はなく、それ以上に関わり合いを持とうと思わなかった。
少し道が異なれば、決してこんな風に酒を酌み交わす間柄にはならなかったろう。そう考えると、この状況がとても面白く思えて、孫権は苦笑した。不意に漏れた笑みに周泰が不思議そうに問う。
「孫権様…?」
「なに、お前と初めて会った時のことを思い出していたんだ」
「……左様ですか…」
端から見れば答えになっていない返答に満足したのか、しなかったのか、周泰はそう呟いただけだった。
「しかし私は昔から周泰に世話になってばかりだった」
孫権の懐古の台詞に周泰は少し間を置いて答える。
「…俺は…側に仕えていただけです…」
「淋しいことを言うな、お前がいなければ今の私も世の中もないのだから」
そう言うと孫権は周泰の杯になみなみと酒を注ぐ。周泰も頷き、酒を飲み干すと孫権は満足気に笑う。
しかし不意に表情を曇らせて言葉を続ける。
「お前は私に何かあると何時も身を呈して助けてくれた…私はそれが不甲斐無くてならない」
周泰の体にある大半の傷は、孫権の為に付いたものと言っても過言ではない。自分は人の身を犠牲にしてまで生き延びる様な人間なのだろうかと、孫権は思う。
如何なる戦いでも、孫権に危機が及べば、彼は敵の真っ只中に斬り込んで、孫権を救う。それは嬉しくもあったし、悲しくもあった。
助けてくれた事、足手纏いになる事、周泰が傷付く事。何もかもが錯綜して胸が痛くなる。何度繰り返しその想いに駆られた事だろう。しかし、それを周泰に詫びても彼は孫権の為ならば、とその傷を顧みない。
周泰の忠義は頼もしくそれでいて苦しい。それは周泰の所為ではない、孫権の問題だった。
「…孫権様を御守りするのが俺の役目…この傷は…彼方を守っているという…証です…」
孫権の言葉に答えた周泰に、孫権はそれまでの暗い表情を押し殺して笑い言う。
「判っている、お前が私の傍らにいてくれる事、嬉しく思う。済まないな、今日はもう暗いのは止めよう、さあ、もっと呑んでくれ」
周泰に酒を勧め、自らも杯を傾けながら、つとめて孫権は笑う。
兄に嘆願して配下に迎え、幾度となく自分を救出した周泰に、孫権が憧憬から成る敬慕を抱くのは必然だと言えただろう。無論それを相手に押し付けるでもなく、傍らに控えている周泰に精一杯感謝と尊敬を表す事で孫権は満足していた。
だから、使命とはいえ、周泰が側にいて自分の言葉に耳を傾けてくれる事が、孫権には幸せだった。主だからという理由ではあるが、自分を守る事が嬉しかったのだ。
それゆえに、周泰の身に傷が増えるのを孫権は恐れていた。彼を失うかもしれない、という恐怖と、自分の欲望が露見してしまうかもしれない、という恐怖が、常にあった。
自分本意ではあるが、周泰を失いたくないと思う。今の世なら、それは叶うだろう。まだ完全に平和とは言えないが、周泰が傷付く事はないだろう。それはつまり、孫権の側にいなくなるという事だが、それでも構わない。
彼が生きてくれてさえすれば良いと思う。それが自分の一番の望みだと、心に呟き孫権は杯を重ねる。
ふと周泰を見た。戦装束でない彼はじっと孫権を見つめている。まるでかける言葉を探しているように。
「周泰、どうした?」
「…孫権様、俺は…彼方を守る為なら、傷付く事も厭いません…」
問掛けに、周泰はゆっくりと、思いを確かめながら話し始めた。孫権の考えを見通しているように、必要な言葉を。孫権は居住まいを正してその思いを聞く。
「傷を負う度…彼方を守っていると、実感出来るのも…不謹慎ですが…彼方に、心配して頂けるのも…嬉しい、のです…」
途切れ途切れの言葉だが、それらに嘘はないように見えた。周泰は、必死に伝えてくれているのだ。
「しかし…孫権様が、辛い顔をなさると…とても苦しい…俺は護衛の身なれば…彼方が、傷付かぬなら、他は良い筈なのに…」
時折困惑の表情を見せる周泰に、孫権は少し気持ちが和らぐ。滅多に思いも感情も出さない彼を、暫く見ていたいと思う。
「何故かは、判っています…もう長らく……彼方を、主君としては守って、いなかった…俺は、彼方を…」
言葉を途切れさせた周泰は、逡巡するように視線を彷徨わせる。孫権は言葉の続きを静かに待った。
「…彼方を、孫権様として、お守りしています…」
そう言ったきり周泰は口を閉ざした。ただし、視線は孫権から外さない。周泰の言葉を反芻していた孫権は、その真っ直ぐな視線を受けて、空の杯を置くと、歓喜と不安が混ざった顔で言った。
「周泰、凄く嬉しい、有難う、たくさん気持ちを聞かせてくれて。戦は、もうないけど…これからも側にいてくれるか?」
最後の問掛けは微かな声だったが、周泰の耳には届いたようだ。何時もの様に、ゆっくりと口を開いて、少ない言葉で応える。
「…いつまでも…お守りします…」
「違うのだ、周泰、側にいてくれればいい」
思いがけない孫権の頼みに、周泰は驚いた風だったが、その口元に笑みを浮かべて、言った。
「…勿論です…いつまでも、孫権様の、お側に…」
その返事に頷いた孫権は、満面の笑みで周泰、と彼の名を呼ぶ。周泰は、穏やかな表情でそれに応じたのだった。
彼方にも告げずに続く想いを嗚呼今も
エンド
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蜀と魏を滅ぼした戦の後の、膨大な始末が終わる頃、周泰は孫権に話さないか、と誘われた。護衛の任を解かれ、また互いに忙しい事もあり、周泰が孫権と会話をしたのは久しぶりだった。周泰の及びもつかない量の仕事をこなしているのだろう孫権は、傍目にも疲労していたが、周泰が了承すると、何でもないように楽しみだ、と言って執務室に戻っていった。
その身を案じながら周泰は夜、孫権の部屋を訪れた。侍女が酒や肴の支度をしているのを見ると、宴で酔い潰れてしまった孫権が思い出され、ふと笑みを溢した。
孫権に問い詰められたが、何でもないと呟いた。
周泰は孫権に最初に見えた日を思い出す。
孫策に下り、呉国の将となった周泰は、都の城で孫策の弟に相対した。自分が名乗ると相手も慌てて名前を言い、暫く呆とした後、思い出したように歓待の辞を述べて、逃げるかの如く身を翻して去った。
「何か慌ただしい弟で悪ぃな、まァ頭が良い奴なんだ、権がいれば俺は安心して戦に出掛けられるってもんだ」
とは孫策の弁であるが、周泰は御意、と応えながらも孫権の事を思い出していた。
大分背の低い少年は最初怯えていた様だった。それなのに、自分が何気無く彼の名を呟くと、じっと見つめられた気がした。何故かは判らないが、それは嫌な事ではなかったし、守らなければならない大切なものの様に思えた。
その後暫くは言葉を交わす事はなかったが、いつも視界にその姿を探していた。
ふと孫権が苦笑したのが判った。
問うと、彼は初めて会った時の事を思い出していた、と言う。自分と同じ事を考えていたという事に驚き、何故笑ったのかが不思議だった。
孫権の言葉に周泰は短く答えた。
自分は当然の事しかしていない、と。
しかし、饒舌に反論されては周泰になす術はない。頷きながら周泰は考える。孫権の護衛となってから幾度も彼を助けた。孫権さえ生きていれば構わないとばかり、どんな苦境でも飛び込み守り続けた。
周泰を突き動かしていたのは、使命感もあったろう。しかし、それ以上に孫権を失ってはならないという思いがあった。それは失いたくないとも、守りたいとも置き換えられるが、何よりも彼の傍らに在りたいと思う気持ちが強かった。孫権に乱世でない時代に立って欲しかった。
だからその為に付く傷は厭わない。ただ孫権が悲しむことだけが辛かった。
孫権が無理に笑うのが判って胸が痛くなる。
こんな表情をさせてしまった自分の言葉に周泰は後悔した。役目等と言えば孫権が自らを追い込むのは判っている筈だった。本当は仕事だとか任務だとかいう言葉を使いたくはない。周泰は孫権が君主だから守っている訳ではないのだ。君主でなくとも自分は孫権を守り続けるだろう。
しかしそれを上手く伝える事が、果たして自分に出来るか。これ以上孫権を傷付けはしないだろうかと考えると、周泰はそれを告げるのを躊躇してしまう。敬慕の目で見つめてくれる孫権を親愛や忠義以上の心で接する自分が厭ましくて、周泰は口を閉ざすのだ。
しかし今日は何故か悲しげな孫権は見たくなかった。だから周泰は孫権を見つめ重たい口を開く。
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