闇に舞い 黒き地に降る雪と 絹を染め 心を侵す墨








白を侵蝕する黒、黒が埋没する白、決して混じらない隣り合わせの二極



宵には筆が良く進む。
特にこんな、月が美しい夜は。
詩作の世界に耽りながら、そのまま夢の中へと沈むのも心地よい。
ちゃんと寝台で寝ろと五月蝿い側近もいるが、さして差し支えもない。
そんなことを考えながら、筆に墨を含ませる。
優雅な動作で筆を硯から離して持ち上げ、宙を滑らせる。
しかし穂先が文字を連ねる前に、過剰に筆が吸っていた墨が、ぽたりと着物に落ちた。

(あ…)

真っ白い艶やかな生地の夜着に墨はじわりと滲み、布が吸い切れなかった液体は軌跡を描いて滑り落ちる。
その光景に暫し見入る。
白と黒の対比。
白い絹を染める墨の黒。
じわりじわりと絹糸の織り目に染み入る墨は、しかし決して白さを凌駕することもない。
不思議な光景である。
曹丕は墨を拭うでもなく、着替えをするでもなく、憑かれたかのように動かずにいた。

「子桓様」

しかし名を呼ばわれてはっと我に返る。
微かな声ではあったが、外部からの刺激は曹丕を正気に戻すには十分だった。
だが真っ白な頭では室の外から掛けられた声に咄嗟に反応出来ず、誰なのかも判らずに視線を投げ掛けるだけになる。
すると再び窺う声がした。

「子桓様?」

「ああ…仲達か、入って良いぞ」

「失礼します」

今度はその声の主が側近―――司馬懿であると判断出来た。
何用かと思いつつ中に招き入れると、司馬懿はゆっくり近付いて来る。
そして曹丕を見下ろす位置まで来ると、冷静な表情を崩し目を剥いて口を開いた。

「―――如何なされたのです、その衣は…!」

「あ…」

司馬懿が驚くのも当然だろう、汚れをいとう主が、黒くなった衣を着たままでいるのである。
よもや墨をつけたまま呆けているとは思うまい。
何かあったのかと蒼然となっている司馬懿に曹丕は口を開く。

「何もない、墨を溢しただけだ」

「…ならば尚更何があったのかお尋ねしたいものですな、お召し替えもせずに居られるとは」

心配することはないと告げれば、司馬懿は幾分か安堵した声で、しかし皮肉に非難してくる。
曹丕は握ったままだった筆を漸く下ろして、ふうと溜め息を吐いた。

「そのように気を立てるような事は何もない。墨を溢した所にお前が来た、それだけだ」

「…兎に角、お召し替えを。墨も…まだ洗えば落ちるやもしれませぬ」

暫く怪訝そうに眉を顰めていた司馬懿だが、気にした様子のない曹丕にそっと嘆息すると、諦めたように言い、新しい衣を用意し始めた。
曹丕も渋々立ち上がると、汚れた着物を脱ぐべく帯を解きにかかる。
するといつのまにか背後にいた司馬懿が、手際良く着衣を緩めていく。
司馬懿に体を任せながら曹丕は口を開いた。

「ところで…このような夜更けに何用だ」

「用という程の事はありませぬが…もうお眠りになっているのか、気になりまして」

帯を緩め、衣を肩から落としながら、司馬懿が来意を告げてくる。
曹丕はその言葉に軽く後ろを振り向いて、不機嫌も露に剣のある眼差しを投げつけた。

「…私は眠りたい時に眠る、余計な気を回すなと言った筈だが」

ひやりとした夜気の寒さを感じる前に手早く新しい衣を着せられる。
袖を通し、前を合わせると絶妙な呼吸で帯が巻かれる。

「それについては謝罪します…ですが今宵は伺って正解でした」

司馬懿の声を無視して夜着に視線を落とす。
染み一つない白いそれは目に痛くしかし曹丕を捕えて離さない。
そのうちに脳裏に先程の光景が蘇ってくる。
純白の絹に墨を溢す錯覚。

「私にも教えて下さいませぬか」

声をかけられはっと顔を上げる。
振り返れぬまま曹丕は弱々しく呟いた。

「…何もないと言うておろう」

「この仲達を騙し仰せるとお考えですか?」

しかし毅然と司馬懿に言い切られ曹丕は口を噤む。
己の側近は情緒や機微を解さぬわりに曹丕に関しては殊に勘が良い。
司馬懿に嘘を吐いて隠し通せたことなど皆無に等しい。

「…宜しい、じきに話したくなりましょう」

黙秘を続けているとやけにあっさりと司馬懿が引き下がる。
不審に思い、首だけで振り返ると、司馬懿に唇を覆われた。

「んっ…んん、ふぁ…っ」

司馬懿の舌が口内に侵入し、蹂躪しだす。
同時に袷から手が忍び込んできて、曹丕は声を上げた。
冷たい掌が曹丕の薄い胸を撫でる度に体が震える。
ほんの先程丁寧に帯を巻いた指が、今度は器用にそれを緩め、遂には床に落としてしまった。
口付けから解放される頃には曹丕は袖を通しただけの着物を纏うだけになっていた。
接吻の名残で瞳を潤ませながら司馬懿を睨みつける。

「己が着付けたものをまた脱がすとは滑稽だな…」

「何を仰有います、それこそ本懐でございますよ」

曹丕の嫌味を意にも介さず司馬懿が薄く笑う。
勝手にしろとばかり、曹丕は司馬懿の愛撫に身を委ねた。



明け方、酷く冷たい空気にふと目を醒ました。
室内は未だ闇の中だが、外は仄かに明るく光を放っている。
曹丕は起き上がると、ふらふらと窓際へと歩みを進めていった。

「あ…」

窓際に立って曹丕は感嘆の声を洩らす。
外は清らかな光を放つ純白の世界になっていた。
このあたりでは珍しい雪が夜のうちに積もったのか、乾いた地を白く染めている。
うっとりとその景色に見惚れていると、不意に肩に上衣がかけられた。

「冷えますでしょう」

窘めるような、労わるような口調で声をかけてきたのは、先刻まで共に寝台の上にいた側近だった。
相手を振り返ることはしないまま、曹丕は司馬懿に語りかける。

「仲達、雪だ」

「これは珍しい…道理で寒い筈です」

呟いた言葉に曹丕は苦笑する。
見事だとか美しいだとか、そういう感想はない辺りが司馬懿らしい。
肩を抱かれるまま、その胸に体を預けて曹丕は尚も呟く。

「何もかもが真っ白だ…常は黒い地も今は見えぬ…」

司馬懿の返事はない。
ただ、腰に回された腕に力が込められる。

「白は儚く見えて強い…美しくて…怖い…」

曹丕の体がふるりと震えた。
単に寒いからだと温もりを求めて司馬懿に寄り添う。
耳元で囁かれる酷く優しげな声が凍える曹丕を溶かす。

「窓の側は冷えます…もう一眠りなさいませ」

「ん…」

素直に頷いて寝台へと足を向ける。
寝台に潜り込むと、すぐに司馬懿が掛布を引き上げて、頭をさらりと撫でた。

「寒いと眠れないでしょう、白湯か何かお持ちしますので…」

「よい、そんなものなどより…」

その温もりを逃がさぬようか細い声で引き留める。
髪に触れる手を取り、唇に寄せて誘いの言葉をかける。

「お前があたためれば良かろう…?」

その指にそっとを歯を立てて、挑発するように司馬懿を見る。
目を丸くしていた司馬懿だが、すぐに気を取り直し、寝台をぎしりと軋ませて曹丕に覆い被さって来た。
曹丕に弄ばれていた手で今度は曹丕の唇を擽る。

「誘うのがお上手ですね」

くすりと笑って囁くとそのまま口付けてきた。
ほどかれていた長い髪がさらりと流れる。
黒い艶やかなそれは白い敷布や、不健康なまでに薄い色をした曹丕の肌に良く映えた。
じわりじわりと自分が侵蝕されていく錯覚。
絹に墨を溢したような歓喜。

「時折、思うのです…私の髪が黒いのは、彼方の肌が白いからだと」

食い入るようにその様子を見つめる曹丕に、司馬懿が冗談とも付かない言葉を漏らす。
随分と飛躍している論理は、己の側近らしからぬ言葉だと、曹丕は眉を寄せた。

「この美しい肌を飾り立てるに相応しい色は、黒しかありませぬ。
そして私の髪に彩を添えてくれるのは、眩しいばかりのこの御体だけ…
我々は、互いに互いを欲しているのではないか…と」

屈折しておりますが、と苦笑を漏らす司馬懿の空想に、曹丕は酔い痴れる。
司馬懿になら冒されるのも悪くない。
いっそ、清らかさを求められる位なら汚して欲しい。

(私らしくもないが…なかなか魅力的な考えだ)

知らず知らずに浮かんだ笑みは自嘲に違いない。

「貴方を」

不思議そうな司馬懿の声音に、案ずるなと首を振って曹丕は快感にその身を投じた。



瞳が痛くなる白、頭が重くなる黒、心を侵す隣り合わせの二色








エンド







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久々懿丕。雰囲気小説ですみません。