事後の躰に大気は温い。王たる青年は窓際に敷かせた敷物に気怠い躰を投げ出し、星月夜を仰いでいる。 背も露わに腰元だけを漸く隠した主を、傍らに腰掛けた側近も暑さに面倒になっていて、 此方も手にした羽扇で緩慢に涼を奉っていた。 本来ならば侍従がやるべき雑事を、出自も気位も高い男がしてしまうのは、小人にさえ見せまいとする矮小な独占欲だけではない。 そうせざるを得ない程、目の前の主は一種の神々しさを帯びていたからであった。 肌は月白色に染まり、その美しさは傍らに背を向けて座す男の身を捩らせて魅入らす程。 容姿は元々美しい男であるから、振り返り様に薄い唇に笑みが浮かび、『なあ、仲達?』と悪戯げに名を呼ばれたら、 息を飲む程に蠱惑的としか言い様はない。 「棚機の話を知っているか?」 「…女子供の喜ぶ恋物語のならば」 唐突に主…曹丕は言った。この冷徹な主に相応しからぬ単語に、思わず羽扇を煽る手が止まる。 しかし主は気にも留めない様であった。面倒くさげに返した側近に、逆に主は口端を上げた。 この朴念仁の側近でも、そう言った話を知っているのだと愉快に思ったのかも知れない。 或いは、下らぬと一蹴せず付き合う意志を見せたからかも知れない。 兎に角、主は上機嫌であった。 「あれはな、大昔、生贄の娘と牛を水神に捧げた話が元であったそうだ」 「成程、川に沈めた人柱を手前勝手に美化したという訳ですか。古も今も、よくある話でございますな」 さながら勝者が敗者を貶める歴史の虚構の様に。 何れ曹丕が父に代わり果たさんとする、易周革命の仕上げの様に。 朽ちていく歴史と刻み込んでいく歴史に皮肉を言う。 「平たく言えばな」 曹丕は司馬懿の手から羽扇を取り上げた。ふわりと褒美の代わりにか一つそよがせてから卓を指す。 卓には絹布の様に薄く削らせた木板が二つと、乾きかけた硯と筆がある。 可良夜に詩人の血が騒いだのかと、その板を取り、曹丕に献上した。 言の葉を発せずとて従順に『取って来い』をしてのけた忠犬へ『良い子だ』と主はからかう。 それに怒るのも馬鹿馬鹿しく、司馬懿は『どうも』とだけ返しながら水差しの水を硯に注ぐ。 二人で遊んでいる間に固まった墨は皹割れてはいたが、筆で解す内に元の通りに筆を宵闇よりも黒く染めた。 「良い、床に置け。それとこれはお前の分だ」 仮にも主の持ち物を床に置くのも無礼であろうと硯を捧げ持っていたが、きっと拘りがないのだろう主は床を指した。 空いた臣下の手に、曹丕の手が、先程渡した木板を一枚差し出した。 何も書かれていない薄いだけのそれは、高尚な趣味の用途ではなく、他愛もない児戯の道具に等しかったのだと今更ながら知る。 「明日、叔父が笹を採ってくるそうだ…」 「呆れた。節句を生贄の話にした口で願うのですか」 「節句というモノはそういうモノだろう。偶には純粋に願うのも悪くはあるまい」 「……、」 筆を遊ばせながら曹丕が何かを書き付けていく。主がやる事に、自らはやらぬという訳にもゆかず、手の内の板を見遣った。 天下を、とは書けなかった。彼も此方の野望を薄々感じているとは言え、書くとは思っていないだろう。 第一、野望は願うものではない。自分で成し遂げるものなのだから。 「では、貴方の御命が悠久たらん事を」 ならば真に天に縋ってでも願うものはと言えば、本当にただ一つだけ。 この先、何があろうとも、…例え自らが曹魏を転覆せんとしても、曹丕だけは生きていて欲しい。 叛逆すれば必ず弑さねばならぬと知っているからこそ願う事なのだが。 「…そんな事で良いのか?」 「これ以上に願う事など、私にはございません」 素直に願いを口に出せば、曹丕が刹那驚いたように目を見張って、そして笑った。 珍しく屈託のない笑顔であった。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/07/07 ikuri 七夕ともうじき5周年記念ということで久々の長文でアップです。 生贄云々の話は大学時代中国文化の授業で教授が言ってた話でした。 嗚呼、懐かしいあの青春の日々。(そこで書き始めて今更日の目を見た遅筆具合は脇に置く) 戻 |