―――――【 水涯・1 】―――――



 ひゅう、と冷たい風が吹いた。焼き払われた宮殿からは肉の焦げる嫌な臭いが届く。己が野望を成し遂げた証であった。

「…仲達よ、棚機の話を覚えているか?」

 貴方の言葉なら何だって忘れた事はない。
 口を突きかけた言葉を飲み込んだ。今、感傷を口にしては、己の知略も奮う刃も鈍ってしまう。
 曹丕は後ろ手に縛られ、刑吏の槍でその首を差し出すようにしている。 端正な顔に付いた傷も血も煤も、元は純白であった襤褸の衣も、全て己がした事の結果なのだから。
 今でさえ、自らが至尊の座から堕した主を正面から見据えることは出来なかった。 刑吏の少し後ろに立ち、首が刎ね易いように曝け出させた主の白い首を見るのが精一杯であった。

「随分と懐かしい話で…死の間際は人生の記憶が走馬燈のように巻き戻るとは申しますが、まさか命乞いですか?」
「否。私の命など、今更乞う程の価値はない」

 曹丕は微かに首を振った。白い首元がちらちらと見え隠れする。
 誇り高い主は命乞いなどしないことなど知っていた。 何がしかの教えを諭す者のように達観していたのか、或いは現実に忠実だったからか 『人は何れ死ぬもの、皇帝さえ死ねばただの塵だ』とさえ主は口にしていたから、それも当然といえば当然なのだが。
 そう、その昔、天にこの男の命乞いをしたのは他でも無い私の方であった。 自分が絶つ事になるだろう男を、自分の手から生かしてくれと切に願った。
 …嗚呼、そんな事など、思い出してはいけないのだ。
 手にした扇でいつもの様に口元を隠し、喉奥で嘲笑う真似。 どうしようもない感情に噛み締めた唇を隠す手段に過ぎないのは認めたくはなかった。

「…そう言えば嘗て貴方は…情に厚き伝説を、生贄の風習だと言い切り、書を認めになりましたな」
「嗚呼、だがあれには、まだ話の続きがあるのだ」

 くすり、と微かに聞こえた。嘗て閨で棚機の話をした時のように邪気のない純粋な笑い声を立てたようであった。
 きしりと痛んだ胸に思わず手を置いた。
 それはあと幾許か後に血塗れた石畳に首を浮かべる身からは、到底考えられない程の穏やかさだったからだ。 目を閉じて其の声だけを聞いてしまえば、きっと記憶も心もあの時に忽ち戻ってしまいかねなくて、瞬きすらも出来ない。

「往生際が悪いぞ、曹丕! この後に及んで、まだ学識をひけらかすとは…!」
「…師、良い…」

 無駄話を止めようと、長男が前に出ようとするのを手で制した。
 彼は、囚人の身でありながら勝手気ままに喋る曹丕をただ単純に止めた訳ではない。 子の中でも取り分け優秀な師は、愚かな父の揺らぎを察しているのだろう。 曹丕への未練、或いは情に絡め取られ後顧の憂いを残す事になってはならぬと口を開いたのだ。

「ですが、父上!」
「構わぬ、最後の情けだ」
「…しかし」
「…良い」

 息子の不満と、焦燥の声を聞いても話を止めることなど出来なかった。
 師は諦められない様子であったが、首を振って再度止める。不承不承ながら彼は数歩後退って控えた。 背後で、その怜悧な美貌を歪めているなどと、見なくても分かる。
 息子は曹丕を嫌っていた。『何故、父上はあの男の元などに甘んじているのです?』などと常々言っていた。
 此度の謀反とて、一番に喜んだのは師だ。『これで漸く父上は自由になれるのですね』と高らかに笑っていた。
 それは、父親の曹丕に対する絶ち難い恋着や執着を見透かしていたのだろう。 何れ情に溺れ、野心を腐らせ身を滅ぼす姿が見えていたに違いない。

「…続けて下さい」

 対して曹丕は司馬師の方を気にする素振りすら見せなかった。 一瞥すらも寄越さない。 虚空しかその瞳に映さぬ潔癖な孤高さは、何一つ変わらなかった。










- - - - - - - - - - - - - - 2011/07/19 ikuri
うっかり深夜残業でサイト開設日(7/16)に上げられなかった続編です。
仕方なく、一人寂しく後出し5周年を祝います。

そういえば私的に懿丕だと師丕に、丕司馬なら師懿になるんですが、この感覚って世間様的にはどうなんですかね?