「…仲達、生贄は死なねば生贄にならぬ。だが、後世の話は娘と共に牛の飼い主が罪を得る」 淡々と彼は語る。死に怯えもせず、屈辱に戦慄きもせず、その心持ちは平穏そのものであった。 曹丕の泰然自若とした様が、好きであった。世の深淵を知っていたかの様な冷徹な眼差しも、王者のみ持ち得る玲瓏たる玉声も。 その声が己を呼び、己を見据える事こそが至福であった。 「生贄なぞ嘗てよく有る話で実話のようなものだが、話が飛躍し過ぎだとは思わぬか?」 「伝聞していく内に面白おかしく誇張されるのが、物語でしょう」 「確かにな。しかし、誇張されたとしても、核たる事実が織り残されている時も、織り込まれていく時もあるだろう」 賢しすぎる頭など時に辛いだけだ。曹丕の言わんとすることを悟り、干からびた喉を鳴らした。 腹底にひしひしと溜まっていく、重量感を耐えながら平然を出来るだけ装って言葉を継ぐ。 「…では、貴方の考えるその事実とは?」 「牛飼いは、牛と共に供物として死ぬ運命であった娘と、天の運命から二人で逃げたのだろう。 情が移った牛飼いが共に逃げたのか、はたまた清らかな乙女と契り生贄の価値を喪わせたのかまでは分からぬが」 「…随分と、夢見がちな…」 「…そうだな」 くすり、と主が笑った気配がした。 刑吏達はそれを不謹慎だと思ったのだろう。 彼の首を抑え付ける槍に込める力を強めたらしく、すぐに小さな呻き声が彼から漏れた。 しかし、止めてやれと命じるだけの余裕はもう無かった。 ぐらぐらと揺れ始めた視界と、強烈な嘔吐感は、主の言葉に…そして近付く主の最期に心が崩れかけている証拠であった。 「それで…貴方は、何が言いたいのですか」 「ふ…羨ましかったのかも知れぬな。慣習と言う名の愚かしい柵など捨て置き、逃げることの出来たその者達が…」 「…」 元より曹丕の話は、根拠も何もない仮定から想像した事である。 答えは当然ないものだ。だがそれは、必死で考えないようにしてきた事実を突き付けてくる。 後戻り出来ないことを。共に在れないことを。 野望を達するのならば、この主の命を断ち切らねばならぬことを。 簒奪者の慣わしに従って後の禍根を絶つため、というお仕着せの理由だけで。 だが、それは全て他人の為の処遇であり、言い訳なのだと私は心の何処かで知っていた。 寓話を持ち出した曹丕もまた悟っていた。 彼は賢くて、敏くて、数少ない私の理解者で、たった一人の共犯者であったから。 「私には、為すべきことが、ある」 「…知っている。それで良いのだ」 葛藤を悟って尚、曹丕は静かに頷く。 曹丕も幾らか想ってくれていたから、私の動揺を知っているのだろう。 この期に及んで、全てを捨てて二人で遠くに逃げられたら、逃げていたら、などと。 今の自分達は反逆の征服者と亡国の象徴だという現実を見据えていても思い乱れる愚かしい動揺を! 「…だから、仲達、」 儚く頼りない面差しが、穏やかな笑みの上に、ここに至って初めて少しの寂しさを象る。 彼はこんな顔をした事がなかった。出来るとも思っていなかった。 辛うじて保てていた心を、これほど凶暴に切りつけるとは思ってもみなかった。 「…何です?」 「…来世でも構わぬ。いつか見(まみ)えた時には、鵲の橋を渡って来てはくれぬか?」 「貴様…ッ!」 痺れのような痛みが掌を冒す。 気付いた時には刑吏を押し退けて曹丕の首を掴み、その頬を平手で殴打していた。 小気味よく甲高い音に周囲にざわめきが広がり、衝撃で曹丕が地に倒れ伏す。 受け身を取れぬせいで頭を打ったのか鈍い音がした。 「っ、ぅ…」 「貴様は私を狂わせる気か!!」 「…まさ、か」 衝動のままに主に馬乗りになって胸座を掴んで上体を引き上げる。 殴った拍子に口内を切ったのだろう、つ、と曹丕の唇の端から血が一筋垂れる。 血の気の薄い白い肌の上を滑るそれは、ぞっとする程に紅かった。 「狂っているのは私の方だろう…!」 曹丕が悲痛なまでに叫んだ。思わず瞠目した。 彼が我を取り乱さんとばかりに声を挙げた所など眼にした事がなかったからだ。 見下ろした主は先程までの冷静さや儚さなど嘘のように、身の裡から湧き出ているのだろう感情に唇を震わせている。 「国を落とされ、父も妻子も殺されたと言うのに、まだお前を手に入れたいと願う…! これを狂っていると言わずに何と言うのだ!!」 息を乱していながら、しかしそれを押し殺さんとして喉奥で唸る曹丕の姿はまるで涙を堪える幼子のようであった。 彼の脳裏には、曹家の誇りの重さが、曹家の為に死した者達の怨嗟が過ぎっているのだろう。 抗え、弑せ、出来ねば家に殉じよ、と纏わりついているのだ。 だが、その声よりも遙かに強く願う声が曹丕を揺さぶっているのは、見ているだけでも十二分に伝わってくる。 「仲達、教えてくれ…お前は私の師父であろう…?」 主の薄い色の瞳が潤む。主の頼り無げな声が耳を打つ。主の眦からすっと涙が流れて地に落ちていく。 「…私は、どうすれば良いのだ…」 途方にくれた幼い迷い子のように、彼が静かに呟いた。 ぽたり、と曹丕の頬に水滴が落ちて地へと流れていった。それが何であったのかは、私の頬を過ぎった風が音もさせずに告げた。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/08/08(旧七夕に間に合ってない…) ikuri 5周年をひっそり祝った矢先、geno系ウイルスのせいで更新どころじゃなくなった感じですみません。 処刑に腹を括って臨んでも、結局お互いに未練たらたらな主従でお送りしました。 最近女々しいというか弱弱しい仲達と丕様に超萌えるかも知れません。 いや嘘です、最近じゃないです、これのネタ出しは携帯メールのバックアップ見る限りちょうど2年前でした!(死) 戻 |