新しい覇者である司馬懿は、税を軽くして民を安んじる事に努めた。 元々が儒家の出という事もあり、質素倹約を奨め、酒色を遠ざけ、才人を登用した。 類い希なる知謀で外敵を退け、公務は公平かつ民にも分かり易い政を執ったため、 簒奪者にも拘わらず、その人柄と執政の評判は上々であった。 しかし、その司馬懿が唯一贅を凝らす物がある、と噂も広まっていた。 それは、四海に一羽しかいない麗しい『鳥』。 金の細く長い鎖に足を繋いだ鳥は、世俗とは隔絶された別世界のような後宮の奥庭で詩をさえずっている。 その美しさは司馬懿を虜にし、後宮を疎かにさせるまでに愛でられているのだ、と。 ―――――その『鳥』が嘗ては『鳳』であったことなど、知らぬ者はない。 朝議を終えた司馬懿は、次の仕事の前に後宮へと足を踏み入れた。 玉座で聴かされた退屈な話を、鳥の声で忘れてしまいたかったのだ。 白亜の回廊を進む度、しゃらしゃらと涼やかな音が聞こえてくる。 鳥が散歩しているのだろうか、その音もまた心地良かった。 「子桓殿、」 『鳥』に声を掛けると、緩く結われた髪をふわりと翻して振り返る。 驚きはしなかったが、司馬懿が此処にいることに若干不思議そうな顔をして、朝陽の低きを確かめていた。 「何だ、朝議はもう終わったのか?」 「ええ、まあ」 曹丕は四阿へ向かう所らしかった。 そこからは萌える草木、鮮やかな花々、優美な庭園の造形が一望出来るため、曹丕の気に入りの場所のようであった。 後宮のどの女達よりも一等良い場所を与えていたから、そうでなくば困るのだが。 「ああ、成程。大方、馬鹿共の戯言を聴かされて逃げてきたのだろう」 「ええ、貴方の苦労が偲ばれました」 「だが、自業自得だ」 軽口を叩きながら曹丕が笑った。最近の彼は屈託なく笑うことが多くなった。肩の荷が下りたからであろうと司馬懿は思う。 「それで、何をしに来た?」 「貴方に朝のご機嫌伺いを。今朝は昨夜の名残か、よくお休みでいらして出来ませんでしたから」 曹丕は四阿に着くと、手にしていた書簡を設えの座所に丁寧に置いた。 少し屈んだので、彼の襟元から昨夜咲かせた花片が覗いていた。指先でそこをなぞると耳朶が羞恥に染まる。 「…ふん、暇人め」 襟元を正しながら曹丕が睨む。 しかしその頬は薄紅に染まり、悪態にも力がなかった。 何とも可愛らしい様だ、と思わず笑いが漏れていた。 「これでも忙しい身なのですよ。御心配なさらずとも、すぐに戻ります」 背後には目付役の長男の司馬師が控えていた。視線を遣ると、無言で拝礼する。 数いる息子達の間でも一番優秀な息子は、もしかしたら司馬懿よりも厳格のようであった。 こうして時間を縫って曹丕の様子見をする父親を、あくまでも丁寧に、しかし有無を言わさず現実へと連れ戻すのだから。 今日もまた鋭い視線で『お早く』と促す。 兵は拙速を尊び、政も刻々と状況が変わるとは言え、些か厳しすぎだとは思うが、 怠惰よりは得難いものであろうと別段疎ましいとは思わなかった。 「…そう言う、お忙しい貴方は何をなさっていたのです?」 「良い天気だから、外で『皇覧』を推敲しようとしていた」 竹簡を手に取る曹丕は嬉しそうに口端を上げた。 彼は以前から文学を愛好し、暇さえあれば執筆に勤しんでいた。 しかし、皇帝になってからは、資金も権力も才能さえも揃っていたと言うのに、 建国間もない国は手もかかり、また周囲も外敵に揺れる時勢故に没頭する事を許しはしなかった。 今、司馬懿の加護下にあって漸く曹丕はその時間を手に入れたのだ。 一切の政務から遠ざけられた曹丕の唯一の職務と言えば、 中華全土の風土史や伝承を編纂し、才気溢れる文化人らの作品を普く集めては論評を付け加え、書にする事。 不自由な身の上とは言え、己が趣味を思うがまま、何の邪魔立てもなく才能を奮えるという事に、 彼はやりがいを感じているように見えた。 「ああ、どうです、進み具合は?」 「なかなかだ…先は長いがな」 「じっくり腰を据えてやられると宜しい。時間もありますし、私も助力は惜しみません」 「案ずるな。文化発展に尽力した賢君として名を残せる出来にしてやろう」 「さて、私は朴念仁故…名を残すは子桓殿だけやも知れませぬな」 「…いや、」 曹丕が左足を持ち上げる。ちゃり、と音を立てながら現れた白い足首には意匠を凝らした金細工が填められていた。 女達が喜びそうな見事な彫り物をあしらってはいたが、 その足輪は分厚く、金の鎖が垂れ下がっていて、それが装身具ではなく足枷なのだと知れる。 鍵穴は溶接されていた。 枷は容易には外せず、枷から伸びる金の鎖は細いながらも強度を誇り、曹丕が後宮から二度と出られぬ事を示していた。 「私は表舞台から消えた人間だ…名など残さずとて良い」 子供の様に足を揺らして鎖を鳴らしながら、淡々と彼は言う。 曹丕の処刑の日、結局血が流れる事はなかった。代わりに、司馬懿へと『禅譲』した曹丕は表舞台から姿を消した。 旧主を殺せなかった司馬懿が、密かに自らの後宮の奥深くに軟禁したからであった。 お陰で『曹丕は司馬の後宮に嫁したのだ』などと、嘗て至尊の位に昇った男を貶める、つまらぬ噂がまことしやかに囁かれている。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/08/20 ikuri 史実の丕様は皇帝になってから忙しくて、以前よりは創作活動があまり自由に出来なかったっぽいです。 (それだけ丕様が明君(性格はさておき)として政務に励んでいたからなんですが) だからきっとフラストレーションが溜まって、真面目で堅苦しい文章を文語で書くべき詔勅(皇帝の命令)に 『梨美味い』とか『蜜柑すっぱい』とか『葡萄美味い』とか口語で書いちゃったんじゃないかとちょろっと思います。 (丕の時代までは勅は尊いお言葉(命令)として文語で真面目に書くお約束の詔勅に、グルメ評論しつつ口語を使用したらしい文学革命家丕様 ※史実) 庭籠(にわこ)…庭に置いて小鳥を入れておく籠。 戻 |