「…そう言えば今朝、西域から雑技団や隊商が来たそうですよ。話を聴かれますか?」 「聴く。…会わせてくれるのか?」 曹丕が僅かながら驚きと期待を込めて問うた。 童子のような純粋な好奇心に顔を輝かせた曹丕がどうにも可愛らしくて再び頬を緩める。 「ええ、直に見聴きする方が宜しいかと。但し、叔達も同席で宜しければ、ですが」 彼は虜囚の身にも等しい。本来ならば、こうした機会は脱走や復権の切っ掛けに成り得るから、と与えられぬのが常識である。 だが知識は又聞きでは得られ難いものだ。 特に曹丕は各地に散らばる伝承や風土に根差した詩歌、音楽を集めていたから、 その土地の者に会い、その者の口から紡がれる微妙な雰囲気や調べに直に触れる方が良いだろう。 それは、曹丕をもう此処から出す心算などない司馬懿の、ささやかな配慮であり…可能な限りの譲歩であった。 「監視付きでも構わぬ。叔達なら仲達より趣が判るしな」 「では昼過ぎにでも迎えに上がらせましょう。それまでには身なりを整えますよう」 「ああ」 余程、嬉しいのだろう。曹丕の頬はほんのりと上気していた。 結ばれなかった横髪を手に取り、口付ける。艶やかな黒髪は愛妾よりも美しく、嘗て皇帝であった時よりも滑らかだ。 この髪を引き寄せ、唇を奪い、肌を犯したら…。 昨夜の艶姿が蘇り、湧き上がる欲に身震いがする。 曹丕を見上げると、それを見透かしているかの様な眼とかち合った。 劣情を承諾し、あまつさえ誘うかの如くうっすらと唇が釣り上がる。 「…父上、次の御予定が」 「…ああ」 しかし、司馬師が淡々と…いっそ冷淡な程に告げる。逆に曹丕は何がおかしいのか、くすくすと笑っていた。 「子桓殿、それでは、また…」 「ああ。今夜も来るのか?」 時間に追われる事の無くなった彼は、終夜趣味に没頭する事は無くなった。 代わりに空いた夜は司馬懿の伽に費やされ、『鳥』と揶揄されている通り鳴いて見せた。 『あれは、捕虜ではない。寵姫ではないか』 そう陰で叩かれる嘲りを思い出して、司馬懿は一笑に伏した。曹丕は曹丕であって、捕虜や寵姫などとつまらない物ではない。 その証拠に別段、無理強いした事も、妻妾の様に従順に振る舞う事も強制した事などない。 曹丕には此処を出る以外の自由と、ある程度の拒否権が与えられている程だ。 だが曹丕は拒否の意志を示した事など一切なかった。 それどころか、司馬懿が訪なうと聞けば、寵妃のように身を清めて大人しく自室で待っていた。 主なりのけじめなのか、それとも何か思惑があるのか。 司馬懿には分からない。 だが、例え何であったとしても良かった。此処に曹丕が居さえすれば。 「今日は棚機…節句の日だが」 宮中行事で忙しかろうに、と揶揄する曹丕に少し笑んだ。 これが女であれば行幸がなくて拗ねる姿にもなろうが、相手は他ならぬ曹丕だ。 政に種々の宮中行事…支配者ゆえに課せられる事に忙殺され、 曹丕の元におとなえない司馬懿の葛藤を見て楽しんでいる節さえあった。 普通の者ならば生意気だ、反抗的だなどと憤るのかも知れない。 だが、長年の付き合いで曹丕のそういった行動は好意や親しみの副産物と知っている身なので単に愛しい気持ちが募るだけであった。 「来ますよ。貴方が鵲の橋を架けてくれるのならば」 「さて、架けるのはそこの太子殿では?」 「師が?」 「仲達、」 後ろに控えた息子を見遣ろうとした腕を司馬懿の首に絡めるようにして伸び上がる。 心得たように細腰に腕を伸ばすと、曹丕が蠱惑的な笑みを浮かべて唇を寄せた。 上唇を食んだかと思うと、薄い舌を差し入れて絡める。 口内で小さく水音が立つ。唇を合わせたまま、曹丕の長い睫が震えながら開けられると本当に間近で視線が合わさった。 ―――――月白色の竜眼。 曹丕のその尊い眼がうっすらと笑みの形に細められて唇が離れていった。 「…待っててやるから、早く来い」 唇同士を繋ぐ温い銀糸を暖かな舌が満足げに舐めとる。 見せつけるようにゆっくりと。効果は充分であった。白昼、息子の目前で押し倒してしまいそうになる程、煽られている。 「…今日はご機嫌が宜しいですな」 「お前が優しかったからな。…何だ、嫌だったか?」 「いいえ、嬉しいですよ」 「ならば、良い…」 もう一度だ、と強請るような…それでいて嘗ての様に命じるかの如き声で曹丕が口付けてきたかと思うと、首元に抱きついてきた。 当然拒む訳はなく抱き締めると、幼子の様にくすくすと笑う声が耳元で響いた。 どうしてか、不快で仕方がなかった朝議の事など、もうすっかり気にならなくなっていた。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/08/29 ikuri 懿丕でも懿←師vs丕ですみません超萌えます。(←) 私が書くと懿丕でも、丕が好きすぎてヘタレな仲達、そんな仲達を掌で転がして愛玩する感じの丕様になるんですね。 最近気付いた…(遅) 庭籠(にわこ)…庭に置いて小鳥を入れておく籠。 戻 |