宵闇が迫る後宮の廊に蒼い絹地の提灯が灯る。 皇帝の訪れに色めき立つ筈の後宮の女達はひっそりと静まり返っていた。 彼女達は一様に独り寝をかこつ事を知っていた。外が蒼に染まる夜、それは皇帝が『鳥』の元へと渡る証であったから。 息を潜め、皇帝が己の房室の前を過ぎ去るのを足音のみで知るのみ。 無駄な事とは痛い程知りつつも、どうか気が変わり、己が戸口で留まるようにと祈りながら。 だが想いも虚しく、後宮の奥に皇帝は消える。女達は溜息を吐き、床でひっそりと恨み嘆いた。 「…気になりますか、兄上」 「昭」 敢えて何が、とは言わないし、確かめもしない。賢い弟の気遣いに、司馬師は蒼色の灯りが漏れ出る窓の木縁から眼を離した。 密やかな衣擦れと押し殺した嬌声が聞こえる様な気がするのだ。 蒼の光が後宮からじわりじわりと国を冒していくような錯覚を覚える。 無論、そういった想像は幻想に過ぎぬと知っていたのだが。 「気にならぬ筈がなかろう。あれが生きている限り、乱の火種は消えぬ…!」 苛々と司馬師が形良い唇を噛む。血が出る前にと、兄の美しさを愛する弟の指が唇をそっとなぞる。 「だからって殺す訳にも行かないでしょう。あんなの道楽だと思えば良いんです」 「父上の道楽は命懸けではないか!」 きっ、と司馬師が睨み付けてくる。なまじ酷く美しいから、並々ならぬ迫力がある。 誰もがその美しさと威厳に跪き、身を捧げるだろう。この世で父とあの男の二人を除いて。 「昭よ、あの男の危険性を判らぬ訳ではあるまい!」 「……、」 『あの男』…曹丕の事を司馬師は苛立たしげに口にする。 亡国の王は、普通ならば禅譲の儀を演じさせられた後、一地方貴族に封じられるものだ。 だが、しかしそれは無害なお飾りの王であらばこその処置である。 王の資質を持ち、文武に優れた曹丕を手元から追いやれば、いつ叛乱を起こされるか判らず、乱の火種を野に放つ事に等しい。 故に、足下を掬われぬ為には、殺さねばならぬ。決して自由など与えてはならないのだ。 だが、曹丕は生かされた。 それどころか捕虜としても破格の待遇を得、ある程度の自由を謳歌し、父親の寵愛を独占している。それが兄には許せない。 何故父は曹丕を弑さぬのか。 何故父は曹丕を寵愛するのか。 何か打算があるのか。単なる慢心か、計算し尽くした故の余裕であるのか。押さえ切れぬ情動か。 偉大なる父の思考は子供如きには判らないものなのだろうか。 「だとしても…俺らじゃ何も出来ませんよ」 手を伸ばして怒りに震える兄の体を抱き寄せる。司馬師はやり場のないその感情をぶつける様な強さで抱き返してきた。 常の冷静さをかなぐり捨てて肩口に顔を埋める様はまるで幼子のよう。後頭部を撫でると腕の強さは益々増した。 万一、何かあったら、と。心配する司馬師の気持ちは分からない筈もない。敬愛する父親を、失いたくはない気持ちは当然だ。 しかし、父親は敢えて曹丕を生かし、愛護している。生かす事の危険さも愚かさも全て承知していながら、だ。 恐らく、万一曹丕が自らに仇なしたとしても、父親には想定内であり、覚悟していた事である筈だ。 何て面倒くさい生き方だ、と口を付きそうになる。 「兄上の代になった時、処遇は考えれば良いじゃないですか」 兄は敏いから、曹丕の危険さを知っている。兄は賢いから、曹丕を殺してはならない事も分かっている。 殺せば敬愛する父親が後を追うかも知れない。例えそうせずとも、益々傾倒してしまうだろう。 曹丕は父親の中で美化されて神聖さを帯び、それこそ絶対的な…世界と同一にさえなる筈だ。 それは決して兄の本意ではない。 そして父親も許しはしないだろう。 父との仲に亀裂が入れば、父の愛をひたすら喜ぶ兄は打ちのめされ、二人の関係から国が崩壊すれば曹丕の得にしかならない。 全て分かってしまう可哀想な兄は結局何も出来ない。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/09/05 ikuri いきなり昭師です…好きですこの兄弟。(ぇ) 無双でキャラ化するずっと前から何故か昭師を書いてましたが、漸く無双昭師を世に出せました。 ちなみに次はソフト破廉恥ものです。(丕懿でも書かないくせに!) 海石的パッションが高い証でございます。 青燈…ともしびの青い光。 戻 |