―――――【 星合(前) 】―――――



 ふと眼が開いた。暖かな方を向けば、先程まで情を交わしていた男が小さく寝息を立てていた。 仲達、と掠れた声で名を呼ぶ。彼は余程深い眠りに付いているのか、身動ぎさえしなかった。

「痩せた…当たり前か」

 まさか死んではいまいかと肩先を撫でる。 夜着越しにうっすらと生きた熱が伝わって、ほっとするのと同時にその骨ばった感触に眉を顰めた。
 怠惰に過ごせば醜く肥え太るが、忠勤に励めば激務に痩せるのが皇帝だ。 簒奪間もない国を、完璧主義の気がある司馬懿が統治している故の当然の結果と言えた。

(…暫し寝かせてやろう)

 不意の覚醒に微睡みは遠く、しかし星光は曹丕を誘っている。 だが昏々と眠る相手をその程度で起こすのは忍びず、司馬懿を床に残し、一人、庇に出た。
 身に纏っているのは淡い浅葱の単と金の足枷のみ。 情事の時に全て脱がされた筈なので、これは皇帝が着せたに違いない。 肌に不快感は一切感じない事からして、御丁寧にも丹念に身を清めた上で。
 敷居を越えると温い風が前髪を揺らした。 庭の其処彼処から鈴鈴と虫が鳴いている。空を仰げば無数の星が瞬き、天に大河を成していた。

(…あの夏から幾年過ぎたか)

 この季節になると、二人で他愛ない願いを書き付けた閨を思い出す。今よりずっと若くて、奇妙な主従であったあの頃を。
 さて幾ら経っていたかと、一、二と心中で指折り数えていると、少し離れた所からごく微かな人の気配がした。

「誰だ?」

 緩慢にそちらを向いて誰何の声を挙げる。気配の先は後宮の出口の方にある木立だった。 宵闇の暗さを吸い込んだように濃い陰には人影は見えなかったが、そこに息のある物が確かにいた。
 敵意はない。殺気もない。 そもそもその様な不埒者が入って来れる程警備は薄くない上に、屋敷は奥まっていて宮女すら間取りを知らない。
 知るのは…

「侵入者の真似事とは…父として仲達がさぞ嘆くだろうな?」

 暫しの睨み合い。相手は曹丕のただの気のせいかと思わせたいのかも知れないが、曹丕の自信は少しも揺るがない。
 とうとう観念したかのように侵入者は気配を露わにした。

「…どうも」

 下草をかさりと鳴らしながら現れたのは司馬懿の次男、司馬昭であった。 何か真面目な用件があるのだろう、普段の怠惰な雰囲気はなりを潜めている。

「…司馬昭の方か。仲達なら」
「ああ、別にただの散歩なんで」

 寝ている、と言おうとして遮られた。その素っ気なく、熱の無い言い方に彼の兄を思い出す。

「『ただの散歩』で父親の後宮に出入りはしまい」
「……、」

 図星なのか黙った司馬昭に、く、と密やかに笑う。面倒くさがりの男が後宮まで、有事以外でわざわざ足を運ぶとは思えない。
 恐らくは曹丕個人へ何か話しをしに来たのだと容易く検討がついた。

「此処では仲達が起きる…付いて来い」

 軒先に掲げられていた蒼い提灯を手に取り、昼間も足を運んだ四阿まで誘導する。
 司馬昭はいつもの口癖さえ無く、黙って付いてきた。眠る父親への配慮か、それとも余程父親に聞かせたくない話なのか。
 ただ下草を踏むさくさくとした音、曹丕が鎖を引き連れる音だけが曹丕と司馬昭の間に在る。

「司馬師が一緒ではないという事は…寝かしつけてきたのか?」

 歩みを止めないまま、ちらりと後ろの青年を見遣る。 随分気怠げだ、と意味ありげに呟くと、眉を顰めた青年は少し声を低めた。

「…あまり兄上を虐めないでくれますか? 大変だったんですから」
「…さて、何の事やら」

 曹丕は嘯いた。今朝、司馬昭の兄、司馬師にしたちょっとした仕返しの事だと言われずとて分かってはいたが。
 曹丕は今朝、曹丕から司馬懿を連れ去ろうとした司馬師の目の前で司馬懿に甘え、誘惑して夜の訪いを取り付けたのだ。 そして抱き締めた男の肩越しに悠然と笑んでやった。
 途端に怒りと、嫉妬で顔を歪ませた司馬師は内心、相当に荒れていただろう。激情のままに弟に当たるのさえ折り込み済みだ。
 だが、誇り高い司馬師が、目下の司馬昭に己が曹丕にされた仕打ちを隠す事無く言っていたとは少しだけ予想外であった。

「しらばくれないで下さいよ。朝、兄上を挑発したらしいじゃないですか」

 険しさを増す表情。月明かりの下、明るい茶色の髪がゆらゆらと怒り揺れる炎の様に金の光を放つ。
 父にも兄にも似ない顔はそうしていると、今朝方に愛する父親から曹丕を必死で引き離そうとした姿を思い出させた。血のなせる技なのだろう、と妙な感心を覚え、くっ、と曹丕は笑った。

「だが良い思いをしたろう?」
「…仰る意味が分かりませんね」

 今度は司馬昭が嘯く。だが曹丕にはその言葉が嘘だと手に取るように分かる。
 真新しい精の匂い。着崩した胸元にちらちらと主張する紅い花弁。一瞬背徳の暗さを宿した瞳。
 それらには、禁忌の情事が雄弁に語られていた。

「なのに、わざわざそれだけを言いに後宮(ココ)へ?」
「俺にとっては『それだけ』じゃないんですよ。勿論、兄上にとっても、ね」

 司馬昭の叱責を背に受けながら、四阿の薄暗闇へ足を踏み入れた。 記憶のまま虚空に提灯を掲げれば、吊す金具を無為に鳴らす事なくぶら下がった。






- - - - - - - - - - - - - - 2011/10/03 ikuri
 兄上大事なあまり乗り込んできた弟的なお話に…。
 公式は丕様が司馬兄弟に友好的?なのに、司馬兄弟は冷たい反応ですよね。(仲達もだけど)
 兄弟への科白で仲達仲達と連呼してる上に、仲達を比較基準にする丕様にたまらなく萌えます。

星合(ほしあい)…陰暦7月7日の夜、牽牛・織女の2星二人が相会うこと。※本当は送り仮名に「い」がつきます。