―――――【 依約(前) 】―――――



「…子桓殿?」
「「!」」

 屋敷の方から噂をしていた人物が近付いてくるのに喫驚したのか、はたまた理性が打ち勝ったのか、司馬昭の手が曹丕の手を跳ね退けた。
 曹丕が応えぬからであろう、何度か呼び掛けながら近付いてくる速度はかなり速い。足の鎖を辿っているだけあって、迷いの無い足取りだった。
 横目で司馬昭を見遣る。彼は困り果てていた。曹丕と不仲の我が子が曹丕と密会していたなどと知れたら、要らぬ懐疑の芽を育てる事になるからだ。

「…隠れておれ」

 手振りで司馬懿からは死角になる四阿の向かい壁の陰を指す。体躯の割に身の軽い男は目礼を寄越し、音も立てず一瞬で隠れた。
 気配も消えたのを確認し、もう間近に迫った男に声を挙げた。出来るだけ司馬昭から遠ざける為に、四阿から離れる。

「…此処だ、仲達」

 現れたのは夜着に上掛けを引っ掛けてきただけの姿。相当急いでやってきたのだろう。僅かに息を切らしてさえいる。

「どうした? 随分と慌てているではないか」
「話し声がしましたが…誰かいたのですか」

 訝しげに眉を顰め、辺りを見渡す。幾ら声を抑えようとも、静夜では会話が漏れてしまったのだろう。

「ああ、可良夜ゆえ、詩を吟じていた。どうだ、仲達も吟じてみぬか?」
「私には、向いておりませぬよ…」

 つらつらと虚言を紡ぎながら笑むと、首を振った司馬懿が曹丕を抱き締める。その腕は微かに震えていて、そっと手で撫でた。

「…何だ、この様な所で。悪い夢でも見たのか?」
「…貴方を、失う夢でした。貴方が私を見限り、何処かへと消える…」
「仲達、」

 司馬懿の胸元をそっと押しやり、身を離した。足を上げて夜着の裾を割り、蒼い提灯の灯りの下に金の足枷を翳す。 石床と足元の草むらがさりさりと密やかに喋り、司馬懿の眼がはっと見開かれる。

「…私は何処にも行きはせぬ。行けぬように繋いだのだろう? まだ不足か?」
「いいえ、いいえ…!」

 必死に彼は否定する。この枷と鎖は司馬懿の執着と情愛だ。恐らくは最も理性とかけ離れた。
 その証拠に、捉えた司馬懿の方が枷を見る度に後悔めいた視線を寄越し、目を逸らす。抵抗一つ見せずに甘んじてその屈辱を受け入れた曹丕に尚更そう思うのだろう。

「…私が居らぬとならぬか」
「ええ、ええ。貴方の全てを奪っておきながら、私は貴方を失うのが怖い…! 逆臣が何を戯言をと、嘲笑いなさるが宜しかろう!」
「嘲笑わぬ」
「っ…?!」

 自棄になって叫ぶ司馬懿の頭を胸元に掻き抱き、乱れている髪に頬を寄せた。驚いた様子の男が驚きを露わにし、腕の中から見上げてくる。
 この地を全て統べた男でありながら何処と無く稚い様に愛しさを感じた。この男の手は一族の血に塗れ、身体には血臭を染み付かせている憎い手の筈だと言うのに。

「嘲笑えぬのだ。今、此処で生き長らえている私が、何故お前を嘲笑えるだろうか」
「子桓殿、」
「愚かなのはお前だけではない。皆の謗りや恨みを受けるべきなのもお前だけではない。私もまた受けるべきものなのだから」

 司馬懿が謀叛を決行した日、呆気なく許都は陥落した。
 その支配者であった曹一族もまた、幾人かは戦死し、生き残った者も後顧の憂いを絶つ為に三族が悉く処刑となり、呆気なく滅んだ。曹丕一人を除いて。
 それは何故なのか、など、あの日に死ななかった全ての者が知る事実である。
 嗚呼、と溜息を吐いたのは己か、それとも相手なのか。瞑目すればあの日の事が容易く思い出されて、互いに抱き締める力が強くなる。






- - - - - - - - - - - - - - 2012/08/06 ikuri
 一人5周年祝いとか言ってたら、もう6周年を超えていた…(ガクブル)
 その間にすっかり女々しくなった仲達氏ですが、依存度は両方同じくらいだと思います。

依約(いやく)…たより結びつく。よく似ている。  …依存し合う似た者同士の懿丕イメージ。