―――――【 依約(後) 】―――――



「…私が何故、お前を置いて何処ぞに消える必要があるのだ。私が見限る時は、お前を殺す時なのに」
「…子桓殿、」
「この地の民は衣食足りて誰も盗まず、無慈悲な戦にも怯えず、安らかに暮らしている…お前の戦を恐れて外敵も服した。 この世は漸く平和になったのだ…私の理想をお前は成した。私はお前が成し続ける理想を、此処で共に見ていたい…」

 情に目が眩んでいようとも、悪政が蔓延るのは、皇帝であった者として、看過は出来ない。
 だが、今、天下は一つになり、空は煤けず、地に屍はない。 宮廷の内は正妻腹で文武に名高い長子司馬師が太子に立てられ、外戚宦官の増長も曹丕の時代に定めた法により厳しく抑えられているお陰で醜い後継者争いもない。
 どうして潰えた名の為に乱を起こさねばならないのか。
 尊き泰平の世を敢えて崩すのならば、それは既に民を想う君子の行為ではなく、賊の単なる略奪、ただの蛮行に過ぎなかった。

「子桓殿、」

 頬を包み込む。 白い面差しは月下に益々青白く、激務に細る頬も隈も痛々しい。 それでも万事に手を尽くし、安寧に傷1つ入らぬようにする。それを民が望むから。 それを仲達自身が望むから。 そして、それを誰より曹丕が望むから。

「だからお前は何も心配せずに王としての務めを正しく果たし、身を大事にしておれば良い。私と共にいつまでも覇道の先に在れるようにな…」

 頬から首、肩と撫で下ろし、背を抱いてやる。痩せた身体は見知らぬ他人のように冷たい。
 皇帝の座は尊いが故に人を歪ませ、狂気を呼び、人を喰らうと言う。この男もまた、いつか内側から食われて死ぬかも知れぬ、と言い様のない恐怖に身を竦めた。
 全てを失くした己にはもうこの男しか残っていないのだ。

「…仲達、室に戻るぞ。明日も早いのだからもう休まねばならぬ…大事な身体だ…自愛せよ」
「貴方以上に大事なモノなど何処にありましょうか」
「奇遇だな。私もお前以上に大事なモノはない。だから大切にしてくれ」

 声は震えていたかもしれない。ほんの少しざわつく心の臓を黙殺して相手を見つめた。
 仲達は頬を撫でていた手を取ったかと思うと、慰めるように掌にそっと口付けた。 情緒の「じ」の字も知らないくせに、こうした事だけは得手だと思う。

「分かりました、貴方の為に善処します」
「…ならば、良い。戻るぞ」
「では灯りを」
「待て」

 四阿に向かおうとする仲達の腕を掴んだ。彼の息子は灯りから死角の位置にあるだろうが、聡い彼のことだから気配を察してしまうかもしれなかった。 まして、神経を尖らせた今の状態ならば尚更だ。

「子桓殿?」
「灯りはもう要らぬ」

 不思議そうに首を傾げる彼に、上を見ろとだけ言う。 今日一日頭上を見上げる事などしなかったのだろう、天空にかかる星の河に『成る程』と彼が溜め息を吐いた。

「銀漢がくすんでしまうだろう? 今年は棚機らしい事を何もしておらぬから、せめて銀漢の下を歩くのも良かろう」
「貴方がそう言うのであれば」

 では手を、と曹丕に恭しく差し出された手。それは喪失の恐怖に怯えたか、夏夜には有難いが酷く冷えきっている。

「…冷たいな。これでは眠れまい」
「…ならば眠らせてはくれませぬか?」

 調子が戻ってきたのか、今日は棚機なのだから、と策士の顔で色めいた誘いがかけられる。 自業自得とは言え、壁裏に潜む彼の息子は堪ったものではないだろうとちらりと思う。実の親が男に閨事を仄めかしているのだから。

「…では、手を繋いで添い寝してやろう」
「それだけですか?」

 子供がするかのような不満げな顔に笑い、心持ち尖った唇に口付けた。曹丕からの不意打ちを想定していなかったのだろう、彼は黒曜の目を瞠った。

「それだけ、だ。天上の二人とは違い、我らには明日もあるのだから」






- - - - - - - - - - - - - - 2013/07/01 ikuri
 昭は壁の裏でパパと丕様の会話や閨とかを想像して凄いいたたまれなくなってます。

依約(いやく)…たより結びつく。よく似ている。  …依存し合う似た者同士の懿丕イメージ。