「…、」 四阿の壁裏から、ひょこりと頭を出した。 父はすんなりと屋敷に戻ったようで、寝室とおぼしき部屋の窓から薄明かりが見える。 一時はどうなるかと思ったが、曹丕の機転のお陰で助かったようだった。 漆喰に背を預けて盛大な溜め息を吐く。 こんなところまで乗り込んでおいて何だが、これ以上父に心労をかけたくはなかったのだ。 「しかし、見せつけてくれちゃって…」 ゆったりと作られた夜着から覗く愛咬の痕。低く掠れた声。腰を庇う様に腰を下ろす所作。 決定的なのは、彼が動く度に漂う父愛用の香。 元々美しい人だから気だるそうにすればそれだけで色気があるのだが、艶事を如実に示すそれらが加わると時折何処の傾国かと思い、父親が魅せられてしまった訳に納得する。 だからと言って自分が魅せられるかというのは全く別問題だ。 しかし、何が悲しくて実父と愛人(しかも男だ。稚児でないだけマシだが)の閨事情やら、もう惚けと変わらない告白やらに晒されねばならないのだろう。 あれはお互い真剣なだけ質が悪いと思う。 しかし悲しい事に、終日仕事に追われ、下らない奴等の相手に心を磨滅させられている父を支えているのが曾て同じ立場であった曹丕なのだ。 兄大事さに後宮まで乗り込んで来た事は後悔なんてしないが、正直凹む。 全く以てめんどくせ、と呟いていると忙しなく草地を踏む足音が近付いてくる。 若干の警戒と共に目を遣れば、宵闇に見覚えのある真白い夜着が浮かんでいるのが見えた。 「…昭、」 「…兄上?」 訝しげに眉を顰める。兄は珍しくも余程急いていたらしい。 白地の夜着に上掛けを引っ掻けただけの姿であった。駆け寄ってきた兄がまろぶように傍に膝を付いた。 「おい、昭、無事か?」 本当に珍しくも焦っているらしい。 『親子ってここまで似るもんか?』などと、しみじみ考えている内に沈黙を肯定と捉えたのか、兄は白磁の肌から血の気を引かせて袷に手を掛けてきた。 「馬鹿め、見せてみろ」 反射的にその手を抑える。苛立たしげな兄の目と視線がかち合って漸く事が読めた。 「大丈夫です、兄上。俺は無事です。勿論、あの方も傷一つありません」 兄の目を見据えて一言一言をしっかりと紡ぐ。 何処かに司馬師を安心させるような嘘はないのか、と探るような目が瞬きもせずに問うのを見返す事で否定した。 暫くして夜の気に安堵のあまり震えが走った呼気が落ちる。 「…ならば何故、刀を」 「あくまで護身用です。太刀は流石に駄目でも、一応ね」 脱力して彼はへたり込んだ。 愛用の大刀ではないにせよ、弟が刀を持って消えた事に余程嫌な想像ばかりが頭を占めていたに違いない。 「…俺はそこまで凡愚じゃありませんよ」 「…知っている」 「でも、兄上が本気で望んだら、俺は」 自分で言うのもなんだが、司馬の血脈には稀な体格と、腕力があることを自負している。 余人どころか曹丕にだって遅れは取らないだろう。 だが、曹丕は一流の武技の持ち主だ。一線を退いて多少は鈍っているだろうが、無傷で成す事は出来ないだろう。 それでも兄の為ならば何だって出来ると思う。例え己の命を引き換えにしようとも。 「…私は望まない」 「うん」 「それが、あの男の思惑通りだとしても、私は…」 「…うん」 お前と引き換えにする位なら何も望まない。 ぎゅう、としがみつく兄の顔は伏せられていて判らない。 ただ項垂れた兄の白い項がヤケに頼りなくて、精巧な蝋人形のように無機質に見えたから確かめるように首筋に鼻先を擦り寄せる。 嗅ぎ慣れた自分と兄の二つの香り、否、二つが入り交じった匂い。 それはあの人が纏っていたのと同じく近しさを表すモノだ。 「…戻りましょうか」 「…ああ」 頑なに縋る兄の手を外しながら、白い指先を唇に寄せた。 「手、超冷たい。ごめんなさい、兄上」 自分の為にどれ程気を遣わせたかを、血の気の失せた指先に想う。 きっと兄の事だから、弟を愚行に走らせた自分を責めたに違いない。 此処に来るまでの兄の気持ちを想うと自分の軽挙を本当に申し訳なく思う。 「謝るくらいなら黙ってお前が暖めれば良い」 「いいんですか?」 「…煩い」 聞くや否や草の生い茂る上に押し倒した。兄の背中でとさりと草が密やかな音を立てる。 「…此処でとは言ってない」 「でも腰、立たないんでしょ?」 「誰のせいだ」 「俺のせい?」 可愛らしく小首を傾げてみた。容赦なく鼻先を摘まれてしまったが。 「…灯りが目障りだ。興が冷める」 「…了解です」 あの人も蒼い灯りも厭う兄が言葉以上に不快そうな顔をしていたら、大人しく従うまでだ。どのみち本気で言った訳ではない。 手を差し伸べて抱き起こせば、先程の弱々しい姿は何処へやら、もうすっかり平常通りの兄だった。 「流石兄上、もう大丈夫なようですね」 「無論だ」 兄についた草きれを取ってやりながら顔色を窺う。少し怒気を孕んだせいか、血色が戻っていて安堵した。 「じゃあ、戻りましょうか」 無言で頷く兄を促し、四阿に背を向ける。まだほんのりと蒼白い手を引いて歩きながら、曹丕と交わした会話を反芻する。 『…喩えお前達が私の求める世を成したとしても、お前達如きにこの身はやらぬ…司馬仲達こそ故よ』 慕情の言葉など一言も紡がなかったのに、彼は紛れもなく父への愛を語っていた。 父を愛しているかと聞きかけた時も、答える前に稀有な薄色の眼差しが肯っていた。 それでいて、昏君となればその手を血で汚すと言うのだから理解が出来ない。 勿論、それを承知で曹丕を寵愛する父のことも、だ。 自分達の禁忌など霞みそうな程に狂っている。元々そうだったのか、それともあの日に二人とも変わってしまったのか。 どちらにせよ、もう可能な限り関わらない方が良いのだろう。 兄が弟への愚痴だけで介入しないのは、きっとそこが底の見えぬ深く暗い沼のようなものだと心の何処かで知っていて、足を踏み入れる愚かな真似をしたくないからだろう。 理解できないもの程、恐ろしいものはないのだから。 兄にばれないようにそっと後ろを振り向く。 そこはもう宵闇に沈んでいた。 風が置いてきぼりの青燈を掻き消したのか、それとも油がきれてしまったのか。 先程まで曹丕と蒼い灯りの中で話していたあの奇妙なひと時など夢幻だったかのように、自分を曹丕の元に導いた導きはもうどこにも見えなかった。 - - - - - - - - - - - - - - 2013/07/29 ikuri まさかの昭師で〆。無双の司馬兄弟は弟がオープンに兄に依存、兄はこっそり弟に依存しているように見えます(萌) 残夜(ざんや)…まだ明けきらぬ夜。 戻 |