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「ッ…たつ、ちゅうたつ…!」

 声変わりもまだ済んでいない声で、頻りに男を呼ぶ姿は幼子のようである。 男も男で、抱き留めた後、膝に乗り上げるがままに乗せてやり背を優しく撫でている。 安心したのだろう、男を呼ぶ子供の声は段々と涙声になり、押し殺した泣き声になった。

「一体、どうしたのだ? 泣いてばかりいては分からぬよ…」

 荀ケは驚きを隠せなかった。
 軍閥同士の会談の席に乱入したばかりか、賓客の前で字で呼び捨てた無礼な振る舞い。 それは普通ならば鞭打ち等の刑罰に値するだろう。 だがそれらを許しただけではなく、優しく少年の顔を上げさせ、叱りもせずに宥めてやっているのだから。

『…司馬仲達は恐ろしい男ぞ』

 昔、主の曹操が呟いた言葉が思い出される。
 恐ろしいまでに深謀遠慮に長け、戦では常に一兵たりとて生かして帰さず、 国として機能しなくなるまで敵地を徹底的に壊滅させる非情な君主…それが荀ケのみならず皆が知る司馬懿と言う男であった。
 とは言え、彼が血も涙もない人間だと言う訳ではない。 寧ろその逆で、司馬懿は血族を慈しみ、将を分け隔てなく大事に扱う面も持ち合わせていた。 だからこそ世に名高い猛将も智将も彼に心服し、乱世随一の勢力に成り得たのである。

「…ぅ、…ちゅうたつ…ッ」
「ああ、私は此処に居る…。斯様に震えて可哀想に…また怖い夢でも見たのか?」

 (…だがこの様に情愛に溺れるような人ではなかった)

 頻りに呼ぶ子供に司馬懿は甘やかな声で応えている。 荀ケの知識とは同一人物とは思えぬ程にかけ離れた姿に、一瞬訝しむ気持ちが頭を擡げる。
 彼程の人物が何故、と荀ケが彼の腕に目を遣れば、垣間見れた少年の姿にその理由をあっさりと悟る事になった。



- - - - - - - - - - - - - - 2011/02/20 ikuri