―1― 両に居並ぶ軍師達の静かな視線、主の傍に控える武将達の気迫。 何れも天に聞こえる英傑揃いに囲まれ、その使者…荀ケはいつにない緊張を強いられていた。 彼が小物という訳では決してない。 数多英雄の馳せる乱世にその名は名高く、また名将を揃える曹操軍の中でも随一と謳われる知謀、堂々たる見栄えに釣り合う度胸を持っていた。 しかし今ばかりはその事実も霞んでしまう。何せ当世に名高い英傑に拝するのだ。 囁く声さえ聞こえぬ空間は、和睦を深める謁見であるにも拘わらず、至極重々しい。 厳かに先触れの声が告げられ、眼前の首座に君主が座すと周りが畏まるのもあり、場が更に鋭く引き締まる。 「…荀ケ(いく)殿、遠路遙々よくぞ参られました。お元気そうで何よりです。国を揚げて歓迎致しましょう」 「末臣に有り難きお言葉にございます。司馬大将軍におかれましても益々ご健勝のようで真、喜ばしゅうございます」 男の声が極親しげであったせいか、奏上する声は流石に震えはしなかった。だが、大広間に空虚に響いているように思えた。 「ああ…、他人行儀な呼び方はお止め下さい…私の事はどうか昔のように仲達、と」 「勿体無いお言葉ですが、昔ならいざ知らず、今や国家の大事を預かる大将軍を」 「…っ、ちゅうたつ!」 『呼び捨てるなど』と続けようとした荀ケ(いく)の声は、どこからか叫ばれた声とぱたぱたと忙しなく近づく足音にかき消された。 何事かと思い、非礼を承知で顔を上げれば、広間の側面に設えてある扉から、白絹の夜着に藍染めの上掛け姿の少年が走り出てきた。 誰が止める間もなく、あっと言う間に壇上に鎮座する軍の当主…司馬懿に飛びつくように抱き付いた。 「ッ…たつ、ちゅうたつ…!」 声変わりもまだ済んでいない声で、頻りに男を呼ぶ姿は幼子のようである。 男も男で、抱き留めた後、膝に乗り上げるがままに乗せてやり背を優しく撫でている。 安心したのだろう、男を呼ぶ子供の声は段々と涙声になり、押し殺した泣き声になった。 「一体、どうしたのだ? 泣いてばかりいては分からぬよ…」 荀ケ(いく)は驚きを隠せなかった。 軍閥同士の会談の席に乱入したばかりか、賓客の前で字で呼び捨てた無礼な振る舞い。 それは普通ならば鞭打ち等の刑罰に値するだろう。 だがそれらを許しただけではなく、優しく少年の顔を上げさせ、叱りもせずに宥めてやっているのだから。 『…司馬仲達は恐ろしい男ぞ』 昔、主の曹操が呟いた言葉が思い出される。 恐ろしいまでに深謀遠慮に長け、戦では常に一兵たりとて生かして帰さず、 国として機能しなくなるまで敵地を徹底的に壊滅させる非情な君主…それが荀ケのみならず皆が知る司馬懿と言う男であった。 とは言え、彼が血も涙もない人間だと言う訳ではない。 寧ろその逆で、司馬懿は血族を慈しみ、将を分け隔てなく大事に扱う面も持ち合わせていた。 だからこそ世に名高い猛将も智将も彼に心服し、乱世随一の勢力に成り得たのである。 「…ぅ、…ちゅうたつ…ッ」 「ああ、私は此処に居る…。斯様に震えて可哀想に…また怖い夢でも見たのか?」 (…だがこの様に情愛に溺れるような人ではなかった) 頻りに呼ぶ子供に司馬懿は甘やかな声で応えている。 荀ケ(いく)の知識とは同一人物とは思えぬ程にかけ離れた姿に、一瞬訝しむ気持ちが頭を擡げる。 彼程の人物が何故、と荀ケ(いく)が彼の腕に目を遣れば、垣間見れた少年の姿にその理由をあっさりと悟る事になった。 涙に濡れる頬は恐怖に色を失ってはいたけれども、正にその肌は白磁の陶器に薄桃の頬紅が乗ったよう。 男の問いに小さく頷きながら、言葉を紡ぐ唇はほんのりと紅く色付き愛らしい。 頻りに不安を紡ぐ声は声が変わる前の少女のように涼やかで、眼前の大人への信頼を滲ませて舌足らずで甘く響く。 幼さ故の愛くるしさよりも、元服前であろう凛々しさが滲み出始めた美しさは、 同年代になる少年達よりも病的に華奢な体つきやすらりと伸びた裸足の脚も相俟って儚く、妙に惹き付けられる。 加えて着ている衣も白絹の単衣に藍染めの絹の上掛けと、夜着にしては随分と優雅な代物で、少年が持つ気品をより引き立たせていた。 『成程、寵童か』と、荀ケ(いく)は内心で呟いた。 少年は、司馬懿を字で呼ぶからして司馬懿の子息ではない。そう、少年は寵童か、それに準ずる立場にいる。 司馬懿が断袖を好むと言う情報は荀ケ(いく)の記憶にも伝え聞く噂にも、疑わしさの一欠片とて無かったのだが、 最近になって『そちら』も嗜むようになったのかも知れない。 「そうかそうか…傍にいてやれなくてすまなかったな…」 男の声に、泣き止みかけていた少年は小さく頷いて…思い出してしまったのだろう。一つ二つと大きな涙が零れ落ちた。 司馬懿は少年の頬を自らの袖で惜しげもなく拭う。 その仕草は慈しみに溢れんばかりで、少年も穏やかな感情を感じ取ったのだろう。強張った体から目に見えて力が抜けた。 …一体、彼は幾つなのだろう? 荀ケ(いく)の胸にまた新たな疑問が過ぎる。 すらりと伸びた手足は肉付きが薄いせいでかなり小柄に見せていたが、上背はもうじき初冠を迎えていたとて、可笑しくはない高さである。 だが振る舞いは童子に等しく、奇妙と言うに相応しい。 荀ケ(いく)の属する曹操軍にも、壇上の少年位の子供が主君の次子に居たけれども、ずっと大人びていた。 尊敬する父親が多忙のあまり自らを全く顧みなくても、泣き言一つ言わずに自らを律していたのである。 彼も未だ子供の内で辛くない訳は無かろうに、寂しげな眼差しを苦笑で細めて隠すような子であった。 もう少し甘えても我が儘を言っても構わないのだ、と言う大人達に彼はやっぱり大人びた顔で笑うのであった。 (…嗚呼、何故彼を思い出して…『死んだ』者など忘れなければならないのに…) 『…私なら大丈夫です』 (大丈夫であった訳がない。だからこそ貴方は―――…!) 言えなかった言葉を思い出す。思い出したとて答えるべき人は亡く、無駄な事と知りながら。 「『…だって、』」 「!?」 (…え…?!) しかし、しゃくりあげながらの稚い声が、不意に記憶と重なり合わさった。 荀ケ(いく)は思わず息を飲み、眼前で弱々しく振られる細い首を思わず凝視していた。 少年の細い肢体は横抱きにされ、髪から覗く頬だけが見える。 泣き濡れた顔にかかる前髪を司馬懿の手が掻き上げるのを見守るような心持ちで見つめ続けた。 (…あの、声…?) つ、と冷や汗がこめかみを流れていく。 知りたくない、知ってはいけないものを知る時にも似た。息苦しいのは、最早、威圧感のせいではない。 (あの少年、まさか…?) 子供は温和しく瞼を閉じ、されるがままになっていた。 大人の大きな掌に頬を包まれ、目尻に口付けを受ける。唇が離れると僅かに瞼を震わして、その相貌が露わになった。 『…父上は、お仕事がありますから…』 「…ちゅうたつ、おしごと、だから…」 「ッ…!!」 叫びそうになるのを荀ケ(いく)はどうにかこらえた。 言葉だけではなく喉元にぐっとせり上がる何かを堪えるのに必死になりながら、何故最初に気づけなかったのだと自問する。 何故なら今、荀ケ(いく)が目にしているのは、今正しく思い浮かべていた主の次子、曹丕その人。 一年も前に死んでいる筈の子供であったからだ。 正に泉下から甦りでもしなければ、現世で見(まみ)える筈もない存在であったのである。 (何故…!!) 有り得ない、と頭のどこかが否定する。しかし彼は間違い無く生きて「其処」に存在していた。 凍るような悪寒に背筋が震え、両の足が戦慄いている。立っていたら間違い無く、くずおれていただろう。 (…実は、生きて、いた? …否、否、あの状況で生き残れる筈が…ではまさか幽鬼の類だと? 否! それこそ有り得ぬ!) 曹丕は、戦場で消息を絶っていた…基、戦死していた。 劉備軍に新野へ侵攻された際、父親の武将を逃がす為に一人残って僅かな手勢を率いて抵抗したのである。 それは命令ではなかった。 彼は、多くの兄弟の中でも一際、賢い…賢すぎる子供であったから、きっと次男に過ぎぬ自分よりも父を支える名将を生かす方が良い、と理解していたのだろう。 其処は死地であった。 孤立無援の上に寡兵では当然為す術もないまま、制圧されたそこには誰一人生き残った者も居らず、敗残兵の一人すらも許昌へ戻っては来なかった。 曹丕もまた帰ってくる事はなかったのだ。 「……、」 (…そうだ、何を莫迦な事を…。本物の子桓様である筈がない…) 乱世の実力者の寵童相手に短慮はいけない、と荀ケ(いく)は思い直す。 何せ目の前の少年は年に似合わず、言動も振る舞いも大変幼いのである。まるで文始めをしたばかりの子供のようだ。 荀ケ(いく)が知る曹丕の、大人すら凌ぐ程に聡明で利発的であった姿からは天と地程も異なっている。 (…だが…) しかし、そう納得させようとする理性とは裏腹に、よく見れば見る程少年はその失踪した若君と良く似ているのも事実なのである。 背格好も声も顔すらも。似通っていない所を探す方が難しい。 加えて荀ケ(いく)には前から気にかけていた事がある。 子供は行方知れずとなってはいたが、報せの一つどころか、討ち取られたとも、処刑されたとも、噂の一つさえ聞かなかったのだ。 (―――――忽然と戦場に消えた…まるで神隠しに遭ったかのように…。) 生きているならば報せが来る筈。ならば死んだのであろう、と。 そうは思うものの、遺骸が無いため、死を確定させるものが無かった。 さては戦で死んだ者たちの中に紛れたのかとも思うが、彼の顔立ちにも鎧にも雑兵にはない気品があったから、一目で地位がある将だと判別出来る。 仮令、曹丕が幾千の亡骸に埋もれていたとしても見つからないという事はない筈なのだ。 例え彼が子供であっても…否、子供だからこそ不釣り合いの戦場に在るのは地位のある将の子弟だと思われる筈だ。 万一、劉備軍の兵の手に落ちていたとしても、価値ある身柄故に生死を問わず、 兵が論功を得る為に、或いは軍の優位を誇示する為に、『その所在は劉備軍に在り』と告げられる筈であった。 『だから、きっと生きていらっしゃるのだ』 と言ったのは一人や二人ではない。 荀ケ(いく)も余りにも静かな状況に、もしかしたら、子供は生きているのかも知れない、とそんな淡い希望を抱いた事も幾度となく有る。 しかし実際、可能性は無いに等しく、真実を確かめる為にわざわざ人を遣る事はしなかった。 当時各地で戦が激しくなっており、そのせいで徴税も覚束無い状況に陥っていたのである。 例え曹丕が生きていたとしても、捜索に費やす金も、囚われていた場合の保釈金も到底出せる状況ではなかった。 ましてや過去に捕虜となった優秀な将達にさえも保釈を願い出なかった過去もあり、『身内可愛さに動く訳にもいかない』と見送られてしまったのである。 嫡男ではなかったのも災いしたのだろう。 結果として非情な判断を下さざるを得ず、それきり、慌ただしさと気まずさに曹丕の話題に触れる者もいなくなった。 そして消息不明のまま一年が経過して今に至る。 「我慢などせずとて良いというに…、……は本当に良い子だ」 「!?」 ぐるぐると巡る思考の中、不意に聞こえた名前に思わず身が跳ねた。 (…今、何と?) 思わず彼らの口元を凝視する。彼らの唇から、荀ケ(いく)の求めている言葉が出たからだ。 心臓が煩く鳴る。鼓動が耳元で聞こえるかのようだ。 二人は荀ケ(いく)の心内での動揺に気付く事なく、親子とも恋人とも取れる柔らかな雰囲気で話している。 「……ちゅうたつ、おこってない…?」 「何故怒らねばならぬ? 斯様に子桓は…」 「曹丕様!!」 疑念が確信に代わり、居ても立ってもいられず声をあげていた。 壇上の二人は、突如荀ケ(いく)が身を起こして取り乱した事に喫驚したらしく、きょとりとした顔で見つめていたかと思うと顔を見合わせる。 ややもして少年…曹丕の方がちろりと視線を寄越し、おずおずと唇を開いた。 「…ちゅうたつ、あのひと、だれ…?」 「!?」 曹丕の言葉に何かの冗談であろうと耳を疑った。曹丕が彼の父曹操の側近である荀ケ(いく)を知らない筈がないのだ。 だが、怯えを含んだ眼差しは戸惑いげに司馬懿を見つめ、縋るように身を寄せる。 心細げに手が胸元の衣を握りしめ、幾つもの皺を作った。 対照的に男は酷く落ち着いた様子で、長い袖の下に曹丕を包み込むように…或いは隠すように抱き寄せると、 乱れている黒髪を指先で直しながら撫でた。 「あの方は我が同盟国の御使者で荀ケ(いく)殿と仰る方だ。 とても立派な御方だから、子桓に危害を加える事はない。何も案ずる事はないよ」 「…でもなんで、しかんをみてるの?」 「子桓、」 悲鳴のような尖った声を曹丕は発した。『見も知らぬ』荀ケ(いく)に恐惶を来す前触れなのだろう。 司馬懿もそうと感じているらしく、かたかたと震える曹丕を抱く腕を強め、視線をしっかりと合わせて言い聞かす。 「子桓は良い子だと評判だから、荀ケ(いく)殿もお気に留めていらっしゃったのだろう」 「ほんと…?」 「ああ、本当だとも。私が子桓に嘘を吐いた事が有ったか?」 見つめる司馬懿の眼差しは慈愛に満ちていた。 甘く真摯な声音で囁いたせいもあるのだろうか、子供はぽうとした表情で、見とれているようにも見えた。 「子桓?」 「…ううん、ない…」 柔らかに問う声に首が横に振られた。見つめ返す眼差しも信頼を滲ませている。 色白の細い手が首に回ると首もとに甘える仕草でしがみついた。 男が笑みを浮かべ、何事かを囁くと、小さく笑みを浮かべもする。 「だろう? それに此処は私の領地で私の居城だ。 何人も侵入出来ぬし、誰あろうと勇猛なる我が武将と、鬼才揃いの我が軍師達に勝てはせぬ…」 男が穏やかな声で言い続けていると、曹丕が司馬懿に従う武将達を見渡した。 謁見の間には同盟国の使者である荀ケ(いく)に敬意を表してか、呂布や張遼、張コウの他、賈ク、陳宮、劉Yなど名だたる知将や司馬朗、 司馬孚など司馬一族でも取り分け優秀と言われる血族が居並んでいた。 曹丕は彼らの姿を順々に認めて、最後に司馬懿を見つめてから荀ケ(いく)にもう一度視線を向けた。 その時には、もう琥珀色の瞳に怯えは見られなかった。 如何にも荀ケ(いく)が非力そうであるのも一因かも知れないのだが、この状況は『安全』と判断したようであった。 「…さ、子桓、足を。身体が冷えてしまう」 司馬懿が白い爪先を覆いながら囁く。 子供はされるがままに足を任せ…いつの間に用意されたのだろうか…靴を履かせて貰っている。 深い紺地に銀の巧みな縫い取りが美しい靴は、白磁の細い足首をより引き立たせ、司馬懿の目が嬉しげに細められた。 「これで、いい?」 「いや、夜着のままでは風邪をひいてしまうから着替えておいで……伯達兄上、」 「ああ」 司馬懿が傍に控える司馬朗を呼ぶ。 武将達の居並ぶ中でも一際上座の方から、司馬懿に似ているが、大分柔和な面差しの男が進み出て来たかと思うと、躊躇いもなく司馬懿と同じ壇上に上がった。 対する子供は不安そうに司馬懿と司馬朗を見比べていた。 その瞳には次の言葉に対する警戒と怯えが見て取れる。 「兄上…申し訳ありませんが、子桓を」 「やだ…! ちゅうたつのそばにいる…!」 司馬懿に名が呼ばれるや否や、曹丕が鋭い声を挙げた。 すっかり落ち着きを取り戻したと思われていたのだが、やはり完全までには至らなかったようだ。 己を此処から連れて行かせようとする手を拒み、先までの姿を彷彿とさせる程の頑なさでひしっと再びしがみついた。 「子桓…」 「ゃ…いやッ!!」 子供は、握る音がしそうな程に強く拳を作った。 拳の関節は力が込められ過ぎて真っ白くなっており、その強さには流石に放させるのを諦めたようである。司馬朗と顔を見合わせたかと思うと、初めて司馬懿が苦笑を浮かべた。 「申し訳ないが、荀ケ(いく)殿…一旦、席を外しても構わぬだろうか?」 「は…」 また泣き始めた子供を抱き締めてあやしながら、申し訳なさげに司馬懿が窺ってくるのを、荀ケ(いく)は拱手をして承諾した。 どの道、男に言われては承諾をせねばならない上、荀ケ(いく)とてこの状況では平静でいられないのだから。 「忝ない。この埋め合わせは必ず致しましょう」 「…いえ、私の事はお気になさらず」 「そういう訳には参りますまい。…ああ子桓、良い子だから泣きやんでくれ…」 荀ケ(いく)から目を離した男は袖で涙を拭ってやりつつ背を叩いてあやした。 唇でも噛みしめていたのだろう、司馬懿の指が曹丕の唇をなぞっている。 「…では、支度が整いましたらまた貴殿をお呼び致しますので」 『支度』とやらは恐らく曹丕を落ち着かせることなのだろう。 先程のようにしゃくりあげこそしていないものの、全身を強ばらせ、渾身の力でしがみつく子供を宥めきるのは容易ではなさそうだった。 「先ずは愚弟に貴殿を御案内させましょう。何ぞ不便がありましたら遠慮なくお申し付け下され」 「…お気遣い傷み入ります」 「叔達、荀ケ(いく)殿に粗相の無いようにな」 「はい、仲達兄上。お任せ下さい」 司馬懿が呼ぶと、司馬朗よりも司馬懿に良く似た文官がいざり出て流れる様な美しい所作で跪拝した。 この文官が司馬八達の三番目、司馬孚(叔達)のようである。 それに司馬懿が頷いた後、渋る子供をどうにか膝から下ろした。曹丕は不安そうに司馬懿の裾を握り締めている。 「…艾、」 「御意」 司馬懿が誰かの名を呼んだ。どうやら背後に控えていた武将を呼んだらしい。 呂布よりも小柄ではあるものの、身体付きのがっしりした男は心得たように曹丕の傍にまで近付き、簡素な軍礼をした。 そして、いつの間に用意していたのだろうか、手にしていた群青の上掛けを、その無骨な外見には似つかわしくない繊細さで子供に着せていた。 「荀ケ(いく)殿、」 「は…」 存外大人しかった曹丕の着付けが終わるや否や、さらりと衣擦れの音をさせ、司馬懿も立ち上がる。 途端に身を寄せて腰にしがみついてきた曹丕の背を、宥めるように慰撫しながら微笑を浮かべた。 「私と貴殿の仲です…次は格式ばらぬ場でゆっくりとお話を窺わせて頂きたいのですが。如何でしょう?」 「是非もございませぬ」 「それは良かった。では、後程またお招きさせて頂きましょう。…さ、行こうか子桓」 拱手した使者に満足そうに頷くと、今まで背を撫でていた司馬懿の手が曹丕の背を優しく押した。 じっと司馬懿の衣を両手で握り、見上げていた少年は、背に在る大人の手を取り、しっかりと指を絡ませた。 此の場から去れる事が嬉しいと言わんばかりに表情を明るくし、あれ程怯えた使者などなかったかの如く背を向ける。 「ッ…!」 その姿は荀ケ(いく)を焦らせた。 何らかの原因で曹丕が我を失っているのなら、荀ケ(いく)と接した事で思い出すのではないか、 或いは忘れたふりをしなくてはならない事情があったとしても幾許かの訴えは在るのではないかと期待していたのだ。 「司馬大将軍殿っ!」 だが、幾ら何でも彼の様子は可笑しすぎた。 今でさえ荀ケ(いく)が呼び掛けたのに対して、涙の残る瞳で怯えと嫉妬の入り混じる暗い視線を向けてくる。 それは荀ケ(いく)の知らない眼であった。 「…どう致しましたかな?」 「失礼ながら、貴公ならばお分かりでしょう!」 「ええ、勿論」 「!」 挑むかの如き言に司馬懿は予想に反して微笑を浮かべ、その手で少年の肩を抱き、 荀ケ(いく)の眼から隠すように…或いは曹丕の睨みから荀ケ(いく)を守るかのように…己の背後へと引き寄せる。 「その事も含めてお話し致しましょう。…異存は有りませんな?」 有無を言わさぬ君主の威圧が犇々と荀ケ(いく)を襲う。 思わず頭を垂れた荀ケ(いく)に満足げに頷いたのだろう。 一つ、間を設けてからゆっくりと足音が遠ざかっていった。 ―――――軽い足音を伴いながら。 - - - - - - - - - - - - - - 2013/02/24 ikuri 気づけば2年経っていた…ので、まとめ始めました。 まだ載せてないのたくさんあります…よ…!! 戻 |