−2− あれから一刻。 一旦、自分へと宛てがわれた部屋に案内され一息ついた後、 荀ケ(いく)は先程、司馬懿に謁見した広間とは別の部屋に再び案内された。 中庭に面した作りの居室は、広間があった建物より後方に在る屋敷であった。 調度品と建物の質と建物の位置からして恐らくは司馬懿の私邸か賓客用の屋敷か、若しくは詩会や宴で楽しむ為の場所であるのだろうと見当が付いた。 壁一面が無い作りの方へ視線を巡らすと、開け放たれた戸口から昼過ぎの明るい陽射しが眩い程に煌めきながら差し込んでいる。 視線を転じても、見事な枝振りの木々が青々と葉を茂らせ、美しい花々も今が盛りと鮮やかに咲いていた。 鳥も愛らしい声で惜しげもなく歌っている。 燦々と暖かな光が降り注がれるその庭はまるで桃源郷であり、乱世を微塵も感じさせなかった。 丁度その時、背後で司馬懿の訪いを告げる声がしていたのだけれども、それすらも心地良い光景の前には同化してしまう。 「荀ケ(いく)殿、お待たせしてしまい申し訳ない…どうぞお座り下され」 詫びる言葉に振り返り、膝を着いて拝礼をした。 室に入ってきたのは、司馬懿と護衛である数名の武将、そして司馬懿と手を繋いだ曹丕であった。 夜着から衣服を改めた少年は文官風の目にも鮮やかな蒼い衣に身を包み、年相応に凛々しく映る。 だが、荀ケ(いく)に警戒を強めてか、幼子の如く司馬懿の左手をしっかりと握り直したのが視界の端に見えた。 「…子桓。私は荀ケ(いく)殿と大事なお話があるから、暫くの間、儁乂達に遊んで貰いなさい。…儁乂、子桓を」 「是」 先程、広間で取り乱した様子からして、まさか同席させるのか、と思う荀ケ(いく)の予想を裏切り、 司馬懿は曹丕に穏やかに退室を促し、自由な手で張コウ達へとそっと背を押した。 だがやはり少年は動かず、縋るように司馬懿を仰ぎ見る。 「大丈夫だ。此処は開け放たれておる故、庭にいても私が見えるだろう?」 「…ちゅうたつ…」 「子桓殿、私と遊ぶのはお嫌ですかな?」 尚も渋る子供へ、徐に張コウが声をかけた。 怯える子供からは首を横に振られただけで応えは返って来なかったが、気にする風でもなく、少年の側へとしゃがみ、視線を合わせた。 それから慣れた様子で、子供の空いている左手を両手で包み込み、不安げな表情で俯いた子供に言い聞かせる。 「それとも不安ですかな? それでしたらご安心下され。 怖い事など、この張儁乂が子桓殿をお守りする限り絶対に在り得ませぬぞ」 置かれたままであった子供の手が傷と蛸だらけの手をそっと握る。 張コウの言葉は信ずるべきだとしたのだろう。だが右手には司馬懿の手を握り締めたままで、まるで迷っているようだった。 「…ちゅうたつ、」 「うん?」 くいと司馬懿の手を引っ張りながら、少年が司馬懿を見上げた。 握っている司馬懿の手に頬をぴとりと寄せて、ほんの少しだけ寂しげな色を見せる。 「どうした、子桓?」 「…あとで、きっとむかえにきてくれる…?」 「ああ、終わったらすぐに迎えにいこう」 「ほんとに?」 「本当だ。約束する。だから子桓も良い子で遊んでいてくれるな?」 真剣な眼差しで司馬懿が訊いた。 本当はきっと駄々をこねてでも此処に残りたいのだろう。悲しげに俯きながら曹丕が司馬懿の指先を握る手に力を込めていた。 だが今回ばかりは司馬懿も譲らなかった。ただまろい頬をそっと指の背で撫でて、無言で退室を促している。 「……、」 「子桓?」 「……ん、わかった。しゅんがい、」 不承不承ながらも、曹丕はこっくりと頷いて漸く手を離した。 代わりに張コウの手を取ると、先程司馬懿にしていたように強く繋ぎ、視線も司馬懿ではなく、張コウに向けられている。 変化の兆しに、張コウが嬉しげに笑んだ。 裏のない表情はとても明るく、少年の不安げであった表情さえも晴らしていくようであった。 どうやら司馬懿にだけではなく、張コウにも心を許しているらしい。抱き上げられるのにも抗わず、自ら首もとに抱き付いていた。 「さあ子桓殿、参りましょう。…それでは殿、荀ケ(いく)様、我らは御前を失礼致します」 「ああ、頼んだぞ」 子供を軽々と担ぎ上げた張コウが子供を落とさないよう軽く会釈し、背を向けた。 司馬懿が頷けば示し合わせたように羊コや司馬孚などの側近らが追従していく。 武人の張コウとは違い、面立ちも物腰も柔和な彼らは護衛と言うよりも子供の精神を慮った人選なのだろう。 何より司馬懿の近親者である。 司馬懿が絶対的な安全の基準ならば頷ける事であった。 残ったのはトウ艾と杜預の二人だけになった。彼らもまた司馬懿の子飼いと身内である。 武将でありながら軍師に引けを取らぬ知略を持つ彼らは、肩越しに手を振る幼子に手を振り返す己が主君の周囲を鋭い目で警戒している。 「…先程は失礼致しました。大変お見苦しい所をお見せしてしまいましたな」 「いえ…」 子供と武将の背を見送ってしまうと、君主から申し訳なさそうに謝罪が述べられた。 それに荀ケ(いく)は切れ味の悪い応えを返した。 己でも常の舌の滑りが幻の如く思え、余程動揺しているのかと苦々しく感じはするものの、一方でそれも当然かと自嘲した。 まさか同盟国の宮廷で、一年半以上も前に行方知れずになった主君の子息と邂逅するなどと誰が思うだろうか? しかも、同盟国の君主の加護を受けているばかりか、己を失っているのだと喩え天帝であっても想像しえまい。 「早速ではございますが、此方を…我が主がしたためた書簡にございます」 気を取り直して携えていた絹の書を差し出せば、杜預が受け取って司馬懿に恭しく献上し、 男は育ちの窺える優美とも言える手付きで紅い紐を解いて絹布に目を落とした。 内容は時候の挨拶と、今の情勢、同盟維持への意向などを書き連ねているだけの、何の他意も裏もない文章の筈だ。 事実、司馬懿の表情から見ても、それが窺えた。 だが、それでも注意深く文に秘められた情報を読み取ろうとする瞳は鋭く、 司馬懿が噂通りの慎重さと冷徹さを持つのだと示していた。 同盟は維持するに値するのか、どう扱うべきなのか。 親密な間柄であっても、それは常に頭に浮かぶ事。 非情ではあるが、生き残るためには切り捨てる時を間違えてはならない。 事実、司馬懿は他勢力との同盟破棄を躊躇いも容赦もなく実行してきた。 それは、三十路にも届かぬ若さで一大勢力を築き上げた理由の一つであった。 「……確かに。曹将軍もご健勝でいらっしゃるようで何よりです」 「有難うございます」 さほど時を経たず読み終えた司馬懿は、先程まで何を考えて、何を思ったのか一切読み取らせぬ笑みを浮かべた。 腹芸が得意と言われるだけはあり、荀ケ(いく)の目から見ても思考の欠片すら見えてこない。 「文の美しさも変わりませぬな。いつ拝見しても珠玉の如き文を紡ぎなさる…不才な我が身が居たたまれませぬよ」 軽く笑いながら司馬懿が言う。けれどそれは中身を肯定する言葉ではなく、荀ケ(いく)の務めを果たす結果ではない。 「勿体無いお言葉です。主に伝えればさぞ喜びましょう」 賛辞をさも嬉しげに受けながら、内心は恐々としていた。 一抹の不安がない訳ではない。司馬懿が自軍の為に同盟国を冷たい目で審査するのは当たり前のことで。 新野、宛を失った最近、お世辞にも心証が良い…同盟を組む程の利が自軍にあるとは思えなかった。 未だ城数は多いものの、嘗ての勢いも豊かさもなく、最悪、この場で同盟破棄されても仕方ない。 逆に向こうは洛陽のみを拠点として四方を敵に囲まれていた昔とは決別し、自勢力だけでも生きていけるのだから。 「…同盟強化も願ってもないことです。急ぎ正使を送りましょう」 「有難うございます。主も喜びましょう」 役目を務め終えた安堵感に拱手の陰でそっと溜め息を漏らした。 相次ぐ戦に物資も兵も削られていく中で、背後の安全は何より重要だ。 十以上の城を有し、劉備軍という同じ敵を持つ司馬懿勢力ならば尚更に。 「何の、貴軍が在るからこそ逆賊の跋扈も抑えられるのです。 貴軍の御活躍には、私も嬉しく思っておりました…何より曹将軍も貴方もお変わりがないようで安心致しました」 「ええ、御陰様で…しかし、これも将軍のご配慮とご威光あってこそのものでしょう…」 曹丕の事さえ無ければ元は親密な同盟国。穏やかに会話は進む。 そもそも司馬懿は荀ケ(いく)と浅からぬ交流があった。 河内の司馬家は貴族としても清流派としても名高く、同じく名家である穎川の荀家と父祖の代から親しく交わっていたのだ。 こと司馬懿に至っては『荀令君程の君子はここ数百年の歴史にはおりませぬ』と深い敬愛を寄せてくれていた。 優秀な青年にそういった好意を寄せられるのは嬉しいもので、二人が似たような境遇という事もあり、親しく交わってきた。 彼が洛陽で挙兵し瞬く間に乱世に名を轟かせてからも目上の荀ケ(いく)に礼を尽くし、 荀ケ(いく)が袁紹の元を辞して曹操の傘下に入った時には我が事の様に喜んでくれたのだ。 最後に会ったのはもう数年も前。目まぐるしくすべてが移ろう乱世の中で、変わらぬままの関係は稀少である。 「…ケ(いく)殿…荀ケ(いく)殿!」 「っ!」 「……上の空、ですな?」 司馬懿の声に我に返った。思わず男を振り返ると、彼は密やかに笑い声を立てて荀ケ(いく)を見ていた。 さぁ、と血の気が下がる。 「申し訳ありません! 大変なご無礼を…!」 「私の方こそ、荀ケ(いく)殿に配慮申し上げず…大変失礼致しました。長旅でお疲れでしたのでしょうに…」 お詫びに点心でも、と欠片も怒った様子も無く、にこやかに司馬懿は言う。 見ればいつの間にか司馬懿との間に置かれた卓に美味しそうな菓子とゆらりと湯気の立つ杯が二つ置かれていた。 杯の一つを司馬懿が取って口を付けながら荀ケ(いく)に促すように眼だけで笑ってみせた。 「いえ、大丈夫です。長旅と言っても十日程度…疲れと言うほどのものでは…」 「…では、荀ケ(いく)殿の御心を占めるものが、同盟の強化以上に他にあるのでしょうか?」 「!」 「そうでしょう?」 水を向けられ、『来たか』、と荀ケ(いく)の背に緊張が走る。 司馬懿が示唆した通り、親善が目的であったのは、曹丕が会談の場に乱入するまでであった。 真実を知る恐怖故か、からからに干からびた喉がぐ、と鳴る。 「曹丕殿のあの姿は…」 「貴方の御想像の通りですよ?」 言葉を詰まらせた荀ケ(いく)の言葉を遮り、司馬懿は一言で答えた。 彼が置いた湯飲みがカタリと硬質な音を立てて置かれる。 「…どういう事、でしょう」 「軍規を欠いた兵どもに、見目良い子供は格好の餌食…結果、あの様になっても何ら不思議ではありますまい」 「っ…!」 言葉の指す事実に、嫌な震えが背筋を伝った。 事もなげに答えた男は、おぞましい過去に震えた目の前の使者に言葉をかけるでもない。 ただ、何に対してだろうか不快そうに眉を顰めていた。 その表情も声音も、苦渋を噛みしめるかの如きもので、如何に酷い状態であったかは推して知ることが出来た。 「…寧ろ、あそこまで回復したのは奇跡と言えましょうな」 「…何故、我が軍にお知らせ頂けなかったのでしょう?」 荀ケ(いく)の声は穏やかであったが、問いには詰問する響きがあった。 だがそれは仕方のないことであった。 如何なる経緯、如何なる事情が在ろうとて、曹丕は同盟国の君主である曹操の実子。 それを保護したのならば、一報でも送るべきであったのだ。同盟国の義務の一つであるのだから。 しかし司馬懿は動じた様子も、使者の非難に気を害した様子もなく、ただ荀ケ(いく)を見つめている。 その瞳は荀ケ(いく)の瞳の奥にある思考まで覗き込むかの如き鋭さで、自然と荀ケ(いく)の瞳も鋭さを増した。 「では逆に問わせて頂きましょう。あの状態の子桓を、果たして貴軍は受け入れる事が出来ましたかな?」 「…当然です。曹丕殿は我が君の御子息なのですから」 「ほう…それは素晴らしい自信ですな」 司馬懿が深い笑みを浮かべた。穏やかだが、何処か嘲りをも感じられる顔で。そして彼は言い放つ。 「では何故、貴軍はその主君の大切な御子息を、あの様な場所に、斯様になるまで放置されたのですかな?」 「それは…」 探しもせずに、と司馬懿が言外に滲ませる。 あからさまな皮肉は抑え切れぬ怒りからのようで、静かな口調の端々に刺々しさが滲み出ている。 「貴方も御覧になったでしょうに。 誰にも怯える、あまりに無垢で哀れな幼子…あれが、貴軍が『主君の御子息』とやらにした仕打ちの結果ですよ」 「…ッ」 剣呑さの満ちる空気に気まずくなり荀ケ(いく)は俯く。司馬懿はそれ以上責める事はせず、再び手にした白湯を含む。 「……」 沈黙が痛い。黙りこくる二人のみならず、控えていた杜預もトウ艾も何も言わずに影の様にいるものだから尚更であろう。 司馬懿の不興を察し、曹丕への寵愛の深さを知っていて尚、何かを口に出す者はいないのだから。 そして、先程の口ぶりからして、恐らく司馬懿は…否、司馬懿達かも知れないが…全てを『知っている』のだ。 仕方がなかったとは言え、死線に一人残した曹丕を、曹操軍がどうしたのかを。 「…失礼致します、」 永久にも思える重苦しいその場を破ったのは、従者の声であった。 外と通じた戸口に身形の良い侍従が控えると杜預が出迎え、司馬懿は横目でちらりと見た。 彼らが一言二言何やら言葉を交わすと、それから杜預がそっと君主に寄り添って耳打ちした。 彼らの表情からはどのような伝達であったのかは一切読み取れなかったが、司馬懿が頷くと、 杜預は従者の待つ戸外へと舞い戻り、司馬懿もまた優雅な所作で椅子から立ち上がった。 「…庭へ参りましょうか」 寛大な笑みを浮かべた男は、固まる荀ケ(いく)を見下ろして促した。 緩慢に身を起こす使者を見届けると、敷居を跨ぎ、悠々と外へと踏み出した。 荀ケ(いく)も追従して庇を越える。その瞬間、世界が変わった。 「……!」 まさにそこは桃源郷の如き風情。木々の翠は鮮やかに萌え、千紫万紅の花々は甘やかに香る。 柔らかな若芽の芝生は一面に敷き詰められていて、靴越しに何とも言えぬ優しい感触を齎した。 「如何ですかな? 荀ケ(いく)殿のお目に適えば宜しいのですが」 思わず溜息を吐く使者に庭の主は、くすくすと笑い声を立てる。 「…ええ、中原でも此処まで素晴らしいのは拝見した事はありません」 「嬉しい事を仰る。 何しろ最近漸く出来たばかりの上、私の見立てはからきしでしてな…荀ケ(いく)殿の御墨付きを頂けたのならば胸を張れます」 「ご謙遜なさいますな。素晴らしいお見立てですのに」 急拵えと言う割には庭全体の調和が取れている。 財政も豊かな勢力だと言うのに、成金たちが金にあかせたような趣向はなく、 見栄えの良い幾らかの岩と明るい緑や花々だけが品良く庭を彩っていた。 司馬懿の言う通り、歴史の浅さ故に年月の齎す深みは無かったが、若々しい印象が却って新鮮だった。 感動と共にゆっくりと辺りを見渡しながら、感嘆の溜息を再度零す。 この庭は、きっと荀ケ(いく)だけでなく、誰もが一目で素晴らしいと称賛する庭である。 だが、誇るべき司馬懿は自慢するというには些か熱に欠けた物言いと態度で、僅かながら戸惑いを感じた。 自己顕示欲が無い、というよりは、興味が無い、と表現した方が良い。 「将軍のご趣味に御庭があるとは初耳でした…いずれその腕もまた中華に鳴り響きますでしょう」 「どうでしょう? 私自身にはあまりこういった事に興味が有りませんからな…雅事は不得手ですし」 苦笑と共に司馬懿は肩を竦めた。 確かに、戦も政も縦(ほしいまま)にし、名望も高い男の唯一の弱点が一切の雅事であるという噂は、 彼の完璧さも相俟って有名であった。 それらは立身出世には欠かせない物であるにも拘わらず、である。 しかし世の中は不公平なものだ。 司馬懿と同じように荀ケ(いく)も名家の出だったから、彼がそういった面に疎くても此処まで昇りつめた事など不思議には思わない。 名家にとって雅事など形式のような…司馬懿や荀ケ(いく)の様な貴族の出と、 寒門の出とを隔絶せんとする壁の様な物でしか無かったのだ。 (…持てる者の差なのだろう。) だからこそ荀ケ(いく)の主である曹操は宦官の家系と言う恥を払拭し、 己が誇りを守る為に詩や楽、ありとあらゆる貴族の雅事に励んだ。 覇道を遮る壁を取り払い、貴族を超越せんとする為に。 その熱意は息子達にまで及んだ。曹操は彼らが幼い内から文人を数多呼び、学ばせたのである。 今では、曹操、曹植…そして嘗ては曹丕も幼いながら文学の中心にあり、華やかな文化と文壇を築いていた。 だが、もし、血と言う名の肩書きさえあれば、その様な苦労はなかったろうに。 「…しかし、結構な腐心をされたように思えますが」 「腐心…ああ、確かに私が出来得る限りの事をしましたが」 苦労を思い出したのか、男が目を細めて苦笑った。 枝の振り方、岩の置き方、色付くもの全ての色合い。 少しでも違えれば庭の価値は下がってしまう。 恐らくは一流の職人達を雇い入れ、細心の注意を払って作り上げたのだろう事は容易に知れた。 …賓客用に誂えたのだろうか? 興味のない庭弄りを敢えて完璧にしたのは、元の庭があまりにも酷かったか、はたまた下世話な話ながら、 寵姫にでも強請られたのかと邪推してしまう。 だが、至極合理的な思考の持ち主である司馬懿であれば政治的な意味合いがあっての事なのかも知れない。 他国の使者をもてなす際は、庭一つでも自勢力の豊かさを文化的にも財政的にも測られる。 満ちる月の如き勢力にしてみれば、僅かな傷が周りの完璧さもあって目立ち、悪評となってしまう。 例え主が如何に不風流だと知れ渡っていようとも、権威を失わない為には必要な事なのだ。 「そうでしょう。この美しさはどんなに目の肥えた名士でも賞賛せずにはいられませんよ」 「…それは、どうでしょう?」 くつ、と司馬懿は喉奥で笑った。有り得ない、と言わんばかりだ。 「また御謙遜を…」 「いえ、見せるつもりで作ったのではありませんから。 ですので、血腥い政治の駆け引きに使いたくは無いですし、 ましてやよくも知らぬ他人の目に晒したりさえも本当はしたくはないのですよ」 単に庭の事を口にしていた時とは違う、少し熱の籠もった口調。はっと司馬懿を見上げると、相手と視線がまともにぶつかった。 そして緩く笑みを浮かべた唇が荀ケ(いく)に染み渡らせるようにゆっくりと理由を紡ぐ。 「――此処は、子桓の為に作った庭ですからな」 「!」 子桓に見て貰うだけで良いのですよ。 荀ケ(いく)の考えを否定して男はにっこりと笑った。 「この庭が美しくあれば、子桓が喜ぶので念入りに整えさせているだけです。 そうそう、少し前に西域から子桓が好きな葡萄の樹を取り寄せたので、秋を楽しみにしておりましてな…ほら、彼方に」 男は庭の奥を指差した。そこには藤棚のように棚が設えてあり、心地良さそうな日陰を作っている。 群雄割拠しているこの乱世に、遥か西域から遙々取り寄せねばならぬ葡萄の樹は希少な物だ。 例え一本であろうとも、富豪や王族達でさえ手を出すのを躊躇うと言われるほどに至極高価であるのだが、 青々と茂ったその樹は惜しげもなく何本も植わっていた。 あの樹だけでも相当な労力と資金が要った筈だ。庭を含めたら子供一人の為だけに一体幾ら費やしたのか想像も付かない。 「曹丕様の為に、何故、そこまで…」 「貴殿は尋ねてばかりですな。『何故』、などと言うまでもなく分かっていらっしゃるのに」 怖い程の深い愛情と強い執着を滲ませて、くすり、とおかしげに司馬懿が笑む。 「…分かっております。だからこそ理解が出来ぬのです」 その姿に気色ばみながら、荀ケ(いく)はその笑みに嘘偽りなく答えた。 司馬懿が曹丕を我が子に接するのと等しく…否、それ以上に愛おしく思っているのは一目瞭然である。 ただ、関心を一身に集める程、司馬懿は曹丕の何処が気に入ったのかだけが荀ケ(いく)には分からない。 「…あの方が優秀だから、と言うだけではないのでしょう?」 「当然です。どれだけ優秀な者が居ようとも、私は子桓だけを選びますよ。あの子は私の特別なのですから…」 「…貴方ならば、その名望と勢いで、賢い美姫も美童も思いのままに侍らすことが出来るでしょうに」 不可解、という思いを隠さず溜息を吐く。 …そう、荀ケ(いく)には到底分からないのだ。今、司馬懿が甘く彼の名を呼び、特別なのだと言い切る理由など。 確かに曹丕は幼き頃から文武に秀で、見目も歌妓であった母に似て整っている。 荀ケ(いく)の目から見ても、庶子と雖も何れは曹家を盛り立て、世に名を残す一廉の人物となる器であったから、 俊英を好む司馬懿の目に留まっても可笑しくはない。 だが一方で、子供らしくはない冷静さや分別を持つ曹丕に父母の寵は薄く、 そのせいか何処となく影を持ち、馴染み難い子供でもあった。 陰気だ、冷酷だと幼いながらに囁かれもする子だから、曹操の数多居る優秀な子供の中で、 敢えて曹丕のみを選ぶ理由もないように思えてしまう。 ましてや今は精神が著しく退行しているのでは尚更だ。 嘗ての美点すら生かせそうにもないのだから、目の前の男にとっての曹丕には、 欠けた部分を補って余りある…それ以上の何かがあるというのだろう。 荀ケ(いく)を含めた他人が全く以て理解し得ぬ何か、が。 「…では…、どうあっても曹丕様をお返し頂けないのでしょうか?」 「愚問ですな。あの子は私の全てと言っても過言では無いのですから…例え中華一つと引き換えとしても手放しませぬよ」 「…曹丕様が、望まれても?」 荀ケ(いく)の言葉に、緩やかに刻まれていた男の歩みがぴたり、と止まった。荀ケ(いく)も倣うように足を止めた。 「…『曹丕』が、望む? それだけは決してありえませぬな…そうでしょう? 荀ケ(いく)殿」 射抜いてくる両眼。そこに浮かぶのは怒りだろうか、憎悪だろうか。 荀ケ(いく)に向けただけにしては強すぎる闇が垣間見えた。 ―――――曹丕様に一体何が降りかかったのか? 否応無しに想像させられる惨状に、恐怖に似た震えが背筋を這い上がり、喉を締め上げる。 息を飲んだ使者を哀れむ様に彼が口端を釣り上げれば、華やかな新緑は視界から消え失せた。 一軍の君主とは言え、随分と年下の彼に臆した訳ではない。獲物を構えた敵と対峙したこととて、幾度もある。 しかし、司馬懿が一歩距離を縮めるだけで、平穏を謳っていた一切の音を掻き消されてしまった。 「今、此処にいるあの子は司馬懿軍[わたし]の『子桓』なのですよ。曹操軍[あなたがた]の『曹丕』はあの戦場で――」 「ちゅうたつ!」 「「!!」」 息を飲んだのは二人ともだった。 『死んだのだ』、と。 恐らくそう続けられただろう司馬懿の言葉を絶ったのは、渦中の子供の声であった。 ぱたぱたと忙しなく軽い足音はまだ振り返らぬ背へと向かい、甲高い声はじれったげに再度その名を呼んでいる。 その声に司馬懿は一呼吸をして、険しい表情を一切潜めると、ゆっくりと振り返った。 一気に此の場の重苦しい雰囲気が霧散する。男のその背が完全に見えると、漸く緊張感が抜けて、震える息を吐く。 そこにはもう闇の一欠片も垣間見えぬ、ただ子供に対する慈愛に溢れた好青年が、両手を広げて子供を待っていた。 「…ちゅうたつ、おはなし、おわったの?」 「…ああ、終わったとも。子桓の方は、良い子で待ってられたか?」 呼びかけられる前に司馬懿の姿を認めて、一直線に駈けてきた子供は喜びに息を弾ませながら甘い声で訊いていた。 その左手には弓のしなやかな弦を携え、背に矢筒を背負っていたが、それでも構わず胸元へと勢い良く抱き付いた。 「いいこにしてた!」 「ああ、そのようだな。…弓の鍛錬をしていたのか」 「うん、あのね、しゅくしが、おしえてくれたの」 伸び上がった子供は抱きついていた腕を上へと伸ばした。 司馬懿が応えて屈むと、それは子供の意に叶っていたらしく、上機嫌に首元に抱きついて頬をすり寄せる。 「そうかそうか、叔子は弓が得手だからな。…おや、噂をすれば」 「子桓殿!」 曹丕に付いていた武将達が全力でこちらに駆けてくる。恐らくは不意に走り出した子供に置いて行かれたのだろう。 子供を護衛するという任務を帯びた彼らには失態に他ならず、子供の傍に居た主君を認めるや総じて蒼白になった。 「殿!」 「申し訳ございませぬ!」 「良い、良い…大方、子桓が勝手にいなくなったのだろう」 跪拝する臣下に咎める事はなく、彼は穏やかに笑う。 子供はと言えば、何故彼等が謝っているのか分からないのだろう。きょとりとした表情で大人達を眺めていた。 「叔子、子桓の調子はどうだ?」 「は、益々上達しております。元より子桓殿は筋が宜しいので、いずれは名だたる名将にも負けぬ弓の名手になられましょう」 羊コは恭しいながらも、弟の成長を喜ぶ兄の様な感情を滲ませて穏やかに奏上した。 彼もまた曹丕を好ましく思っているのだろう。 曹丕が羊コを見つめる眼もまた柔らかい。 「ほう…凄いな、子桓」 紡がれた羊コの報告に司馬懿は至極満足したらしい。 羊コが深々と拝礼するのに頷くと、労りと褒美の意味を込めて優しく曹丕の肩を撫でた。 その丁寧な慰撫に子供が嬉しげに頬をほんのりと染め、あのね、と稚い口調でおずおずと口を開く。 「しかん、ゆみでちゅうたつをまもってあげるの」 「そうか、それは頼もしいな。ではその時を楽しみにしていよう」 こくりと頷いた子供に男は微笑みながら豆だらけの手を取った。 擦り剥けたのだろうか、充血して紅くなっている箇所は痛々しく、そっと労るように口付けた。それはごく自然な所作で、実際日常的に行われている事なのだろう。子供も驚く事なく受け入れていた。 「なぁに?」 「だが、あまり無理をしてはならぬぞ? 子桓が怪我などしたら悲しいのでな」 「…うん」 心配されている事に嬉しさでも感じているようで、彼は僅かにはにかんだ。 「叔子は優秀な師父だ。これからも叔子の言うことを良く聴いて励みなさい。きっと良い結果になって返ってこよう」 「はい、ちゅうたつ」 「子桓は良い子だ…」 神妙に頷いた子供の額に司馬懿が唇を落とした。そっと腰を抱き寄せて抱き込む。 「…叔子、引き続き子桓を宜しく頼む」 「是」 司馬懿の言葉に羊コは深々と跪拝した。満足げに頷きながら、司馬懿が子供を抱き上げる。 君主にも関わらず自らも騎馬を駆り槍を奮うからか、先程、張コウが抱き上げた時と同じ様に軽々としたものであった。 「…さ、子桓、お腹が空いたろう? 弓は後にして点心の時間にしようか」 「…ちゅうたつも、いっしょ…?」 司馬懿の腕の中で曹丕は可愛らしく小首を傾げて見つめる。舌足らずを増した物言いは彼の不安と寂しさ故なのだろう。 だが、それを余す所なく汲み取った司馬懿が肯うように頬を撫でれば、くすぐったいと子供は無邪気な笑い声を立てた。 それは、此処を訪れて以来…否、子供が『曹丕』であった頃にも見せた事のない心の底からの笑いであった。 「ああ、勿論だとも」 「ほんと? ちゅうたつ、だいすき!」 子供が喜びに溢れながら首元に更に強く抱き付いた。 抱きつかれた男もその背を撫で、取り残された使者の前で子供の一途な瞳を独占しながら微笑む。 象る唇は至玉を得た勝利の笑みを刻んでいた。 「荀ケ(いく)殿も宜しければ是非。洛陽一の厨宰(ちゅうさい)が拵えたので、味は保証致しますよ」 「…有難うございます。御迷惑でなければ御言葉に甘えさせて頂きましょう」 「良かった。食卓は賑やかな方が良いですから」 にっこりと司馬懿が微笑んだ。しかし、それも束の間で彼はすぐに曹丕へと意識を戻す。 「…叔達、荀ケ(いく)殿を先にご案内申し上げなさい。私は子桓に手当てと着替えをさせてから向かう」 「畏まりました。…それでは、荀ケ(いく)様、参りましょう」 「…ええ、お願いします」 司馬孚に促がされ、司馬懿達に一礼をして背を向ける。 今度は張コウが護衛を務めるようで、司馬懿の傍に…偶然か故意なのかは分からないが丁度、 司馬懿と曹丕から荀ケ(いく)を遮る位置に控えたのがちらりと見えた。 「てあて? ちゅうたつが、してくれるの?」 「勿論。私では嫌か?」 「ううん、ちゅうたつがいい…」 背後では荀ケ(いく)の存在などもう忘れたかのように、くすくすと笑い声を交えながら、子供が蜜のように甘い声で囁いていた。 ―――――その甘さは、親愛よりも尚深く、しかし情愛などよりも遙かに清いような、不思議な濃密さであった。 - - - - - - - - - - - - - - 2013/03/31 ikuri 戻 |