―――――【 顧恋 】―――――



 手をそっと取られただけで、みっともなく躰が熱を帯びるのが分かった。 曹丕もそれが分かったのであろう。整った薄い唇を上げて機嫌良く微笑みを見せた。

「どうやら待ちきれなかったのは私だけではないようだな…」
「子桓様…」
「ひと月、だ…短いなどと言わせぬぞ」

 曹丕の言う通り、今宵は久方の情交であった。偉大なる先達の死に自ら喪に服していた間、 司馬懿の方が一切の色も酒も断っていたのである。
 個人的な喪とは言え、公に悼む事を許されずに葬られた男を弔うのだから、主に咎められるかと覚悟をしていたのだが、 曹丕もまたその人には思い入れがあるらしく、寛大にも許しが与えられていた。
 当然主の誘いさえも無碍にしなければならないと知っていただろうに、彼は『待つ』と言ってくれたのだった。

「…私にも、永いひと月でございました…」
「仲達…」

 抱き寄せる腕に促されるまま身を寄せた。
 そうしながら、1ヶ月の短くも長くあった日々を思いだし、身が震えた。
 敬慕して止まなかった鬼籍の人は、自身の…否、主を頂く者全ての理想で在り、眩いばかりの指針で在った。
 その導きには、自身の奥津城に燻る野望さえも鎮めさせ、若い主への忠誠の念と想いに溺れてしまう程に溢れさせたのである。

「私は、何一つ欠ける事なきあの方を敬慕しておりました。臣である者の理想でございましたから。 あの方が殿を支えたように…私も貴方の道に沿ってお支えすれば良い、と信じていたのです。 そうすれば、どちらかの命が尽きるまで貴方と共に生きていられる、と…」

 少し前なら考えられもしない、自身の変化に何度戸惑いを覚えた事だろうか。
 だが、模範である男もまた自身の夢に生き、また想いのままに生きて誰もが誇る偉業を成した。
 人の上に立つべき人間が膝を屈して一人に仕えるならば、己もまた内に燻る欲を抑え、唯一人の為に仕えて生涯を終えられるのだろう、と思えたのである。

(―――――…そう、この手の為に。)

 司馬懿は繋がれた手を握る力を強めた。





- - - - - - - - - - - - - - 2011/02/28 ikuri
顧恋…思い慕う。恋い慕う。
仲達→丕(後者)、仲達→ケ(いく)様(前者)のイメージ。