―――――【 顧恋・後篇 】―――――



「…なのにあの方は御一人で去られてしまった。主を頂く我ら凡人にとって、それは絶望にございます…!」

 だが、結局彼も『人』に過ぎなかった。彼の絶望を想うだけで恐怖が過ぎる。 己が身にもいつか絶望が訪れるのだと諦念にも似た悟りを抱くから。
 いにしえに教えを説いた聖人が召された時、導きを失った人々は悲嘆に咽び、途方に暮れたと聞く。 さすればきっと今の己こそが当に迷える信者なのだろう。これ程にも心細く感じるのだから。

「我らは必ず添い遂げよう…。私がけして手放しはせぬ…だから泣くな」
「…泣いてなど…」
「…そうだな」

 曹丕が目元に唇を落とす。彼が身を退ければその唇が僅か濡れ、刹那煌めいた。
 顎を持ち上げられ、瞳が合う。ただただ真摯な眼差しは揺るぎなく、今の今まで抱えていた抑えきれなく思えていた程の混乱と恐怖、悲哀の情がすっと凪いでいくのが分かった。 このひと月、誰と話しても何をしていてもどうしようもなかったというのに。

「…私らしくありませんな…些か感情的になりすぎました…」

 気恥ずかしさもあって自ら唇を合わせて水滴の跡を吸い取る。 敏い主は気付いていたのだろうが、塩辛い唇を拭うような口付けをくれた。

「んッ…」
「そうだな…お前にしては珍しく、熱烈な愛を詠うではないか」
「…愛…?」

 唇の端を人差し指の背で拭いながら主は笑った。 愛を紡いだつもりのない己はゆっくりと言葉を反芻し、離れた身を惜しむように無意識に身をすり寄せながらその意を伺うしかない。
 当代きっての文人達に勝るとも劣らぬ曹丕ならまだしも、詩の何たるかも理解出来ぬ身には、曹丕の言うような『愛を詠う』事など出来た試しも、した試しもない。 勿論、今でさえその様な意識はなかったのだが、主は上機嫌に囁いた。

「令君に我が身を重ねて嘆く程、私を慕っているとしか聞こえぬ」
「!」

 主の言葉に顔が熱くなる。だが言い返す事もしたくなくて、ただ俯いた。
 己がこうも荀ケ(いく)に拘るのは、彼を敬慕していただけではなく、彼に己自身を重ねていたのだと自覚していたからだ。

「何だ、否定せぬのか」
「…私が子桓様をお慕いしている事を、否定したくはありませぬ」
「…仲達、面を」

 指が顎に掛けられ、上向かされる。気恥ずかしくて、そして何より拒絶が怖くて中々視線を合わせられない。

「仲達、」

 それでも再度優しく促され、恐る恐る主を見つめた。主は予想していたよりも、ずっと優しい面持ちで笑っていた。

「心配は無用だ。斯様に可愛いお前を如何にして手離せよう?」
「…嗚呼、」

 眦から今度こそ隠しようの無い程、止め処なく涙が溢れる。
 仮令、その言葉が未来で喪われるのかも知れないとしても、この瞬間もこの言葉も、想いも紛れもなく、ただ一つの真実であった。






- - - - - - - - - - - - - - 2011/03/21 ikuri
このサイトでは珍しく丕司馬らしい丕司馬…。