「…お呼び立てして申し訳ありません」 「!」 はっと我に返り、慌てて拱手した。 今は夕暮れに差し掛かる頃。 未だ官服にきっちり身を包んだ二人は射し始めた残光の色にうっすら染まり始めていた。 「さあ、此方へ…」 視線を向けると誰しも憧れる才と見目の男が、申し訳なさそうに微笑んでいた。 彼は少し痩せたようだった。 室内へと促し、己の手をそっと取った指は陶器よりも尚白く、儚い程にほっそりとしている。 それでも彼の人柄は変わらず、穏やかな微笑を浮かべていた。 「お時間を戴けて良かった…どうしても貴方に言っておきたい事が有ったのですよ」 「…荀尚書令、もしや、末臣に何か不手際でもございましたでしょうか…?」 奥に設えられた椅子に案内され、言われるがままに座した。 部屋に焚き込められた香は以前のまま品良く漂っている。 だが浮き世離れしたその霊妙なる香りを嗅げば自然と緊張が募ってしまう。 曹丕の側近になったとは言え、未だ荀ケ(いく)は側に行くのも憚られる貴人であった。 「いいえ、どうしても謝らせて頂きたくて」 「謝る、とは…荀尚書令様に謝られる事に覚えがございませぬ。…寧ろ、私の方こそ貴公の名を汚すばかりで…」 寧ろ謝らねばならないのは此方ではないか、と思う。 荀ケ(いく)の推挙にも拘わらず二度招聘を断り、招聘に応じてからも曹操に家の災いを呼ぶと警戒され遠ざけられている。 未だ軍議でも政でも意見が取り上げられる事なく、悉く荀ケ(いく)の面子を潰しているのだから。 「いいえ、貴方はよくやってくれていますよ…」 荀ケ(いく)は仄かに微笑を浮かべた。 「私が謝るのは…貴方の平穏を乱したのが私だからです。…私が貴方を殿に推挙したのです」 ふわり、と空気が動く。 彼が頭を下げたのだと、予想外のこと過ぎて、すぐには理解出来なかった。 「な…尚書令! どうかお止め下さい!」 「貴方には不本意でしたでしょう。ですが、この国の行く末…それと、曹丕様の歩まれる『道』に貴方が必要だと思ったのです」 徐に頭を上げた麗人の顔には疲労が浮かんでいた。そして静かな覚悟と悟りの色もそこにありありと浮かんでいた。 息を飲む客人に、ひたりと麗人が眼を合わす。 「曹丕様を宜しくお願い致します」 「尚書令、」 「…貴方もご存知でしょう?」 執務室は重職に就く功臣とは思えぬ程に質素で、人の出入りもなく何処か閑散としている。 否、質素なのは彼の人の性格もあるのだろうが、以前よりも急に色彩を無くしたように見えた。 目の前の麗人も何処となく面窶れして、溶け入りそうな程に儚い印象がある。 静かに見つめてくる双眸は諦念の様な悟りを湛えていて、うっすらと潤んだ眼の縁がきらりと光を放った。 それは全て、荀ケ(いく)の身に起こった事を示唆していた。 「無責任と罵ってくれても構いません。私には、もうこれ位しか出来ようもないのですから」 「そんな、こと…!」 「いいえ、私は、もう――――…」 麗人が力なく微笑んだ。 己の無力を嘆くように、己の惨めさを哂うように。 静かに首を振ると、細い細い一雫が、真っ直ぐに頬を伝っていったのだ―――――… - - - - - - - - - - - - - - 2011/04/09 ikuri 斜陽…西に傾いた太陽。斜めに射す夕日の光。時勢の変化で没落しかかること。 丕司馬の原点はいく様による処が大きいと思うのです。 戻 |