―――――【 香雪・前篇 】―――――



「…仲達、起きたのか」
「っ…」

 主の声に、格子から見える氷柱を伝う水滴から目を離して振り向いた。 常より掠れた曹丕の声は妙に色気が在り、頬に僅かながら熱が灯る。

「…子桓様、雪です」
「ほう…? この前、梅も散ったと言うに…珍しいな」

 袷一枚きりで窓際に立つ寵臣に、一瞬不機嫌にも見える表情を浮かべた男は、 上掛けを自身で羽織ると脱ぎ捨てられた袍を片手に近付いてきた。

「地が…白うございますね」

 津々と降りしきる雪に目を細めた。時刻は丑の刻を過ぎた頃だろうか。
 少しだけ開けた格子からは銀の光が漏れている。 雪灯りだけでは外の様子は到底解らないが、きっともう真白い六華は地を深く覆ってしまったのだろう。
 …あの日は、薄曇りの日であった。
 曇天に雪か雨が降るのかと思っていたが、代わりに降っていたのは柩の縁を覆う、白梅の丸い小さな花弁。 溶けぬ白は木からの哀悼、甘い芳香は令君と呼ばれていた荀ケが未だ其処にいるかのようであった。

「…仲達、」
「…はい…?」

 曹丕の呼び掛けに意識を引き戻した。見上げれば訝しげな主がいて、暫し瞬く。

「どうなさいました…?」
「…お前、香を付け変えたか…?」
「…いいえ…? …何か、匂いますか?」

 情事の後に香を付け替えるなどと小まめな性質ではない。 首を傾げながら、袖先を鼻に近づけて嗅ぐ。不快な臭気がしたら事だと若干怯えてはいたのだが、別段異様な臭いはしなかった。 ならば誰かの移り香かとも思いはしたが、この部屋を出てもいないのに、先まで共寝をしていた曹丕以外の香りが移る訳もない。

「私には感じられませぬが…ご不快なら身を濯いで参ります」
「…否、それには及ばぬ」

 戸惑いながら告げると、曹丕は首を振った。

「ならば、私の気のせいだったのだろう…それか、外気から匂いが来たのかも知れぬな」

 もう終いだと、臣の肩越しに格子を閉めた。その拍子に、曹丕がふるりと身震いしたように見えた。








- - - - - - - - - - - - - - 2011/05/29 ikuri
香雪…香りのある雪の意、転じて香りのある白い花。