宵闇に沈む東の府に人影が一つ。 今は空室のその窓辺に士大夫が佇んでいる。見るからに身なりも良い男は気品に溢れ、さぞや名の有る名士と推察された。 その歩哨は訝しく思いながら近付いた。既に夜半の今、月も無く、灯りすらない部屋に高官がいるのは珍しい。 『…どうされました』 歩哨の声は掠れていた。畏れではない…緊張の為だ。まだ弱卒である男には、貴族と接触した事などない。 踏み入れた部屋は机一つ無く片付けられ、閑散としていた。 代わりに彼から放たれているのか、天界の様な馥郁とした香りが部屋全体に漂っている。 歩哨はこの部屋が空室の理由も、元は誰の部屋であったかも何一つ知らなかった。 もしかしたら、目の前の貴人は知っているのかも知れない。 だが、知っていたとしても、その官吏がいるほどの用が、何も無いこの部屋にあるとは思えなかった。 一体、彼は此処に何の用があるだろうか? 『……を、お待ちしております。ですが、私は胸を患っている為、最早待てぬようです…』 涼やかな声が、痛みか悲しみにか弱々しく応える。 その声音は、誰しもが胸を痛めるだろう響きに満ち満ちていて、初対面の歩哨でさえも何かしてやりたいとさえ思わせた。 『僭越ながら・・・私めが迎えに参りましょうか?』 『いいえ、あの方は来ませぬ…もう、二度と』 貴人が華奢な首を振る。切なさの込められた溜息と共に紡がれた玉声が震えていた。 『ではせめて灯りをお持ちするか、お供の者をお呼び致しましょうか?』 気を利かせた歩哨の声に文吏が振り向いた。それはとても美しい男であった。 男の記憶の中で一番美しく、神々しいまでの美貌は神々も斯くや、と思わんばかりである。 思わず見惚れた兵卒に文吏が微笑む。眦から一筋の涙が伝った。 『ありがとう…ですが、必要ありません』 『ですが…』 『あの方は私を弑したのですから…!』 窓から轟と風が吹き込む。あまりの強さに刹那歩哨が瞬くや否や文吏は消え失せてしまった。 『ヒッ…! ぐ、ッぅ…!』 悲鳴を上げかけた歩哨。だがそれは叶わなかった。胸を掻き毟りながらよろめいた歩哨はどうと床に倒れ伏した。 彼は知らなかったのである。知っていたとしたら、何をおいても逃げていたであろう。 ―――――そこは、嘗て『令君』と呼ばれた官吏が『居た』部屋であったのだから。 - - - - - - - - - - - - - - 2011/11/21 ikuri このシリーズのコンセプトが現れ出てきましたね… 単なる丕司馬ではないところが海彼品質です(←蒼さんも巻き込むな、と…) 弾冠…かんむりの塵を払って君のお召しを待つ。 戻 |