『…御帰還はいつになるのでしょうね』 捺印の炭が乾いた書簡を巻き、何とはなしに窓を見上げた。季節の移り変わりにある空は高く、澄んでいる。 『…御無事でいらっしゃるのでしょうか…』 まるで主の掲げる旗のようだ、と考えてしまうと思わず重々しい溜息が漏れた。 主が居城を息子や臣下に任せて出立したのは季節が変わる前の事であった。 目的の為に栄達していく主と、信念の為に栄達を固辞する己の間に出来た溝は、未だ埋められてはいない。寧ろ日毎に亀裂を深めていくばかりである。 『っ、』 咳が幾度か出た。合間に乾いた息漏れのする嫌な咳である。これが為に主は軍師たる己を置いて戦に赴いた。郭嘉の二の舞になる事を避けたのだ、と言う。 『…否、私は捨てられたのだ…』 蒼に惹かれるようにしてふらりと欄干に近寄る。 こふりとまた漏れた咳に俯けば、眼下の緑が鮮やかに萌える美しい庭を、主の嫡男と年若い文官が仲睦まじく歩いているところであった。主に厭われている若い主従はあまり良い噂を聞かない。 それ故にだろう、お互いを庇い合うように寄り添う二人は、より親密に細やかな情を築いているようであった。 『…昔は、我らも…』 見られていることにも気付かず、彼らは主従としては近しい距離で何事かを話している。信頼、愛情、畏敬、好ましい全てをお互いに抱いているのが一目で判る。 ふと、嫡男が笑った。皮肉げな笑みばかりの彼にしては珍しく屈託の無い笑声が響く。 文官の方も普段の嘲るような高笑いなどではなく、口元を袖口で隠して笑っている。隠すなとでも言ったのだろうか、主の腕が臣の細い手首を掴んですぐに下げさせる。 近付いていく距離に文吏は抗わなかった。 大人しく主の顔を見詰め、一瞬の触れ合いさえ受け入れた。 それはとても自然な行為のように見えた。 紫紺の鮮やかな裾から出た白磁の手が、主の腕にかかり、そっと身を離させる。 恥らっているように、俯いた文官。宥めているのか、何事かを話しかける主に対し、人目を気にしてきょろきょろと見渡す。 弟達に比べ、嫡男である彼は後継に立つ正統な理由はあれども、父の寵愛が薄いせいで立場の方はあまり芳しいものではない。 醜聞でも立ったら、と思うのだろう。 『ッ!!』 不意に見上げる素振りを見せた文官から逃げるようにしゃがんだ。その弾みでまた咳が出た。 今度は水っぽい咳であった。口を抑えていた手を開けば黒ずんだ血が一つ二つと地面に落ちていく所であった。 それが死に逝く自らの姿を暗示しているように思えて、そっと目を伏せた。誰も寄り添ってはくれぬ身の哀れさを呪いながら。 どれ位経ったのだろうか。 咳が収まってから、窓下を再び覗き込んだ。 嘗ての自分達と同様に、仲睦まじい主従は去り、もう何処にも居なかった。 - - - - - - - - - - - - - - 2012/07/18 ikuri 魏主従が逢引してるのをうっかり見てしまった方はモブではありませぬ。 迦想…遠く離れた人や遠い昔の人を想う。世俗を離れる思いを起こす。 戻 |