残簡












「蔡ユウの娘が父親の蔵書四百余りを復元したそうだ」

何の前振れもなく唐突に曹丕は呟いた。
執務中のことである。
その辺の文官ならば突然のことに戸惑い、何も答えられないだろう。
しかし、曹丕と、長くはないが上辺だけでもない付き合いの司馬懿は、直ぐ様返事を返す。

「蔡ユウの娘と言いますと、丞相が匈奴より連れ戻した、あの…」

蔡ユウの娘は、蔡エンと言い、才女の誉高い董祀の妻である。
匈奴に捕えられ、彼等の地で十年余りの日々を過ごしていたが、曹操が金で購ったのだ。
曹丕は司馬懿の言葉に頷き、筆を置いて続けた。

「ああ、父に求められ自ら記したらしい、しかも一言一句間違いなく…父も喜んでおられる」

「子桓様も嬉しいのではありませぬか」

司馬懿は当然のように言った。
曹丕の文学は主流である詩だけに止まらず、文学そのものにも向けられる。
殊に記録にはかなりの情熱を注いでおり、司馬懿を驚かせている。
しかし曹丕は司馬懿の予想とは異なり、淡々と答えた。

「貴重な資料だ、喜ばしいことには違いない」

素気無い曹丕の態度に、司馬懿は内心首を傾げる。
何か気に障ることでも言ったか、と会話を顧みながら曹丕に再び問うた。

「おや、それだけですか」

「…他に何がある」

「もっとお喜びかと思いまして」

これ以上は(自分で話をふっておきながら)何もないとばかりの曹丕である。
司馬懿は疑問を素直に口にする。
しかし、当然返って来ると思っていた曹丕の言葉は、一向に司馬懿の耳に届かない。
流石に可笑しい、と司馬懿も不安になる。

「…子桓様?」

俯きがちの曹丕の顔を覗き込みながらその名を呼んでも、反応はない。
答えを待たずに、曹丕に近付こうと足を踏み出す。
が、直ぐに曹丕が口を開く。
曹丕との距離は僅かに一歩縮んだだけだ。

「…幾ら記録をしても、記録したものがなくなってしまえば、それは存在しなかったことと同じだ。戦火ならばそれも仕方のないことかもしれぬ。しかし故意のものならばどうだ?不都合なものを無かったことにすることは…」

それきり曹丕の声は途切れてしまう。
曹丕は恐れているのだろうか。
俯いている曹丕の表情は見えない。
司馬懿はそっと曹丕に近付き、傍らに膝をつく。
人の気配にはっと顔を上げた曹丕に、司馬懿はきっぱりと言った。

「記録とは即ち刻むこと。それは記憶と同じ…憶えていればいくらでも甦りましょう」

「忘れたらどうする…」

眉を顰めて司馬懿の言葉を否定する曹丕は悲壮な表情だ。
司馬懿は苦笑を漏らすと、当然のように言い切る。

「自分が憶えておらずとも、周りが教えてくれましょう、そういう者が必ず傍らにいるはずです、子桓様のお側にこの仲達めがいるように」

曹丕の頬を掌で包み込んで司馬懿は微笑んだ。
不意のことに曹丕はきょとんとして司馬懿を見つめている。

「その価値があるからこそ其処にいるのです。いなければ、忘れられたことはさしたることではないのでしょう」

「…薄情というか、淡白というか…仲達らしい言い草だな」

極論とも言えることを断言する司馬懿である。
それまで難しい顔をしていた曹丕も、それを聞いてくすくすと笑みを溢す。

「私は確かなものしか信じませぬゆえ…大切なものは失われぬものですよ」

柄に合わない台詞だと曹丕は笑う。
司馬懿も同意するように眉尻を下げて見せた。
落ち着いたのだろう、司馬懿と顔を突き合わせたまま曹丕は軽口を叩く。

「お前に慰められるとはな…」

「愛しい人に悲しい顔をさせたいものなどおりませぬ…子桓様には微笑んでいて欲しいのです」

これには流石の曹丕も恥ずかしそうに口を噤む。
しかし揶揄っているようには見えず、曹丕の口許は自然緩む。
いつになく甘い言葉を囁く司馬懿に、曹丕は感謝の念も込めて、彼の鼻先に口付けを落としたのだった。












エンド







++++++++++

二文字御題から「残簡」
ちょっとシリアスぶると曹丕が弱気に、司馬懿が無駄に男前になります。