■9月 菊 「諸葛誕殿、今日は重陽です、よろしければ私の邸で菊酒などいかがでしょう」 文鴦の誘いを、諸葛誕は躊躇いながらも了承した。 本当は頷くつもりなどなかったのだが、好青年然とした笑みを向けられると、一瞬の迷いが生まれてしまった。 返事に詰まると、見るからに悲しそうに、縋るように見つめられ、どうしても断ることができなかったのだ。 そうすると、目の前の青年は顔を輝かせて、「お待ちしております!」と告げ、その場を去っていった。 長身の後姿を見送り、諸葛誕はそっと吐息を漏らす。 夜のことを思うと、気が重い。 憂鬱な気分を抱えたまま、ゆっくりと止めていた足を動かした。 空が闇色に染まる時分、とある邸の前で、立ち止まる。 深く深呼吸をして、気持ちを落ち着けると、意を決して訪いを告げた。 間もなく現れたのは、邸の主本人だった。 下男が出て来ると思っていたので、驚いて男の顔を見つめると、彼は心得たように答える。 「あなたがいらっしゃるので、手伝いの者は下がらせたんです」 そう笑顔で告げた男の、文鴦の意図が掴めず、何故だか空恐ろしい悪寒を感じて、体が震えた。 諸葛誕の不自然な様子に気付いていないのか、文鴦が中に入るように促してくる。 差し伸べられた手を拒絶することも出来ず、邸に入ると奥まった位置にある部屋に案内された。 そこにはすでに宴席が設えられていて、勧められるがままに席に座ると、その体面に文鴦も腰を落ち着ける。 すぐさま目の前に置かれた盃に酒が注がれ、菊の香りの仄かに漂う酒で早速乾杯をすれば、軽く口をつける程度の諸葛誕の前で、文鴦は美味そうに杯を干した。 酒も強いのだなと、幾らか劣等感を滲ませた思いでそれをぼんやりと見ていると、やはり男は穏やかな笑みを浮かべて、話しかけてきた。 「遠慮せずに飲んでください、食べ物もありますので…お口に合うと良いのですが」 そう言われてしまうと、手を付けずにはいられない。 愛想笑いを浮かべてのろのろと箸に手を伸ばし、適当に摘まんで口に運ぶ。 味は悪くはないのだろうが、よくわからないというのが本音だった。 それでも感想を求められれば差し障りのない返事をして、酒を舐めるように少しずつ減らす。 時折文鴦が口を開き、それに答えはするものの、会話は続かない。 当然だろう、何とか表情を作って無理やり言葉を探してはいるものの、そこに会話を続けようという意思は薄い。 「……お誘いしたの、ご迷惑でしたか?」 きっとそれはこの真面目な青年にも伝わったのだろう、眉を情けなく下げた顔で、こちらを窺うように見てくる。 諸葛誕はその表情を一瞥し、中身のさして減っていない杯を置いて、首を緩く振った。 「そのようなことはない、私のようなものを招いてくれて、有難いと思う」 「ですが、あまり召し上がられていないですし…もしかして、体のお加減が悪いのでは」 「いや、そうではない」 もっとどうしようもないものだ。 己の醜さを露呈しなければならない理由を、この真っ直ぐな青年の前で吐露することは、拷問に近い。 だが、心配だと隠しもせず、今にも席を立って駆け寄ってきそうな文鴦には、正直に白状しなければいけない気がして、腹の奥が痛みに疼く。 眉間に皺を寄せると、更に若者の整った顔が悲痛に歪むのが見えたが、そこからは目を逸らして諸葛誕は閉ざしていた口を開いた。 「文鴦殿は私を買い被っている。私はそのように気遣われるほどの人間ではない。況して、尊敬されるような人格の持ち主でもない。愚かな人間なのだ、私は」 目の前の青年は茫然としてこちらをただ見つめている。 その表情にはどんな意味があるのだろうか、想像すると、驚くほどに絶望的な考えばかりが浮かび、自嘲が漏れた。 「司馬師殿に諭されねばきっと私は自滅していただろう。だが、君は違う。生来から健やかな思考を持ち、弛まぬ努力もすることができる。私はそんな君を見て、劣等感を覚え、時に嫉妬する。君は私を慕ってくれるが、それが時折息苦しくなる。……私は所詮、その程度の人間なのだ」 文鴦の表情は変わらない。 きっと失望をさせてしまったことだろう。 そのことに罪悪感はあるが、不思議と快感にも似た開放感があった。 肩の荷が下りた、と言うのはこういうことだろう。 もう、こうして座している意味もないと、ここを立ち去る許可を得るべく、諸葛誕は更に言い募った。 「軽蔑しただろうか?それならば」 「いいえ」 だが、それを遮ったのは、思いの外落ち着いた声だった。 不思議に思い、彼の顔を見る。 そして、その行動を後悔した。 口元は微笑んでいるというのに、その目には光がない。 今度こそ明確に感じたそれは、恐怖だ。 「文鴦殿…?」 「諸葛誕殿は尊敬に値する方です。あなたは、努力家で真面目で、正義感のある方でしょう?私はそう信じています」 「なに、を…?」 静かな声音だというのに、有無を言わせぬその言葉に、諸葛誕は声を詰まらせた。 冷静なその姿に、寧ろ狂気さえ感じる。 「ご存知かと思いますが、菊には高潔、節操、無欲という意味があります。まるであなたのような花だと思いませんか」 文鴦の目線がゆっくりと動く。 それを追いかけると、花瓶に差された菊の花が視界に入る。 この花に、諸葛誕が似ているという。 何の衒いもないその言葉が、彼の本心なのだとしたら、その眼はどのように世界が移っているのだろう。 諸葛誕には、想像もつかなかった。 「…それは、買い被り過ぎではないか」 「いいえ、そのようなことはありません、諸葛誕殿はご自分を軽視し過ぎです」 探るように否定してみても、文鴦の表情は変わらず、それゆえに彼の考えの強固さが窺える。 その顔から目を離せずにいると、男は優しく笑って見せた。 「ですから、そのようなことを言わないでください、あなたは素晴らしい人なのだから」 まっすぐ射ぬくような視線は、胸を貫く刃のようで。 ただただ純粋な賛辞は、まるで呪いの言葉のようだった。 エンド ++++++++++ 鴦→誕みたいな? 気持ち悪い文鴦が書きたかったのにそうでもなくなりました。 戻 |