■10月 紅葉



九寨溝。
四川省にあるこの地は、中国でも屈指の紅葉の名所である。
国内外より多数の見物客が連日のように訪れる景勝地に、大学生である関索も、休日を利用してはるばるやってきた。
長い旅路ではあったが、一見の価値はある光景だと断言できる。
それほど、美しい湖も、色付いた木々も、すべてが筆舌に尽くしがたいものだった。
だが、せっかくの光景もどこか上の空のものになってしまうほどに気にかかることが、関索にはあった。
ずっと昔から、心の片隅で燻っていた思いがあった。
夢の中の出来事のように、浮かんでは消え、掌から零れ落ちる感覚に苛まれてきた。
思い出そうとすれば苦しい、だが、忘れてしまうことはもっと辛い。
不確かな何かに導かれるようにこの地の土を踏んだ瞬間、突然それは鮮やかな実像として、脳裏を埋め尽くした。
目の前に広がる、大きく逞しい背中。
戦場の土の匂いまではっきりと蘇って、関索は思わず涙を流した。
自分たちを、国を守って、そして死んでしまったあの人に、会いたい。
今はその思いでいっぱいだった。

(でも、こんなところに来たからと言って、すぐに会えたら苦労はしないな…)

思い出したことは多くはない。
後姿と、その人を犠牲にして生き延びたという事実だけ。
名前も顔もわからない人物を、広い世界で、無数の人の中からどうやって見つけ出すというのか。
あまりにも無謀と思える探し物だが、焦っても仕方がない。
どこにきっかけがあるかわからないのだから、ひとまず、この地を見て回るのもいいだろう。
それに、もう少し、この場所で、この紅葉を見ていたい。

(見たことはないのに、懐かしいなんて、不思議なこともあるんだな)

何故か郷愁を呼び覚ます赤や黄に見惚れていると、人の気配を感じた。
これだけの人がひしめいているというのに、その人が隣にやってきた途端、引力のような抗いがたい力に引かれ、振り返る。
そこには、関索よりも少し年上と思われる青年がいた。
しっかりと鍛えられているとわかる体躯と長身。
凛々しい横顔も相まって、人目を引くであろう姿だが、不思議と注目はされていない。
まるで、彼と自分、二人だけの切り離された空間にいるかのように。

「益州とは」

青年の口から発せられた、容貌に違わぬ、落ち着いた心地好い声。
耳に馴染む低音に聞き入ってしまう。

「父上が決死の覚悟で守ろうとされたのは、こんなに美しい場所なのだな」

遠くを眺めていた顔が、ゆっくりと振り向いた。
その表情は、とても柔らかく、新愛に満ちている。
途端、どくりと心臓が脈打つ。
痛い程の高鳴りに、息が苦しくなり、咄嗟に胸を抑えた。
それでも、目を逸らすことはしない。
逸らしたくなかった。

「お前も、ずっと戦ってくれていたんだろう、ありがとう――――関索」

その瞬間、すべてがわかった気がした。
自然と顔が綻び、口から言葉が滑り出す。

「―――――はい、兄上も、守って下さって、ありがとうございました」

あなたがいなければ、蜀という国も、それを守る人々も、生き残ることはできなかった。
命を賭して、あの地を守り通そうとしたことを、誇りに思うと、ずっと伝えたかった。
その気持ちが届いたのだろう、青年も―――――関平も、優しく笑った。

「兄上はどうしてこちらに?」

「ああ、お前に会いたかったからな」

その言葉に関索は驚いた。
何故、という言葉が頭の中を飛び交う。
表情にも出てしまっていたのだろう、問う前に、関平が答える。

「おかしいかもしれないが、ここなら会えると思った、としか言えないな。
カエデには、追憶、という花言葉があるらしい…それもあったのかもしれないな」

武骨な手が伸ばされ、耳元の髪を梳いて、離れていく。
遠のく手を目で追っていくと、その指が赤いカエデの葉を持っていることに気付く。
どうやら飛んできた葉が、髪についていたのを、取ってくれたようだ。
ありがとうございます、と告げようとしたのだが、それは声になることはなかった。
骨ばった指先で軽く弄んだかと思うと、そのままその赤い葉を唇に寄せ、口付ける。
軽く伏せられ、再び開いた瞼から覗いた瞳が、関索をじっと見ている。

「ずっと会いたかった、関索―――理由なんかない、ただ、会いたくて仕方なかった」

かぁっと頬に熱が集まる。
その言葉には何の含みもないのかもしれないが、それでもこの人はそんなことを言う人だったろうか。
戸惑っていると、先刻の艶っぽい笑みとはうって変わって、関平が爽やかに笑った。

「とりあえず、行こう。
時間はこれからたくさんあるが、ようやく会えたんだ、色々話がしたい」

差し伸べられた手に、己の手を重ねる。
しっかりと握られた手からぬくもりが伝わり、関索は確かに感じた。
これが夢ではないのだと。

(兄上―――今度こそ、お傍に―――)

幼い頃のように手を引かれ、けれどあの時とは違う僅かな熱を感じながら、心の中で祈った。








エンド







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気持ちは平索です。
因みに九寨溝とか行ったことありません。
旅に出たい。
遠くへ行きたい。