■1月 松



司馬懿が出張から帰ってくると、不思議な光景が広がっていた。
ダイニングテーブルの上に、茶碗が置いてある。
いつも司馬懿が使っているものだ。
それが伏せて置いてある。
更にその下に、紙が敷いてあるのだ。
暫し呆然と立ち尽くす。
机の上に茶碗が置いてあるだけなら、何らおかしいところはない。
ただ、司馬懿はここ数日家を空けていて、茶碗を使用する機会はなかった。
もっと言えば、家を出る前に、食器棚に片付けた。
だから、ここにあるのは奇妙だ。
下に敷かれている紙も、セッティング用のものであればオシャレで済むが、どう見ても何の変哲もないA4コピー用紙だ。

「……何だこれは」

思わず声に出して呟く。
だが、そうは言いながらも、不法侵入だとか、すわ心霊現象か、という類の焦りはない。
犯人の目星はついているからだ。
ただ、全く意味がわからない上に、唐突過ぎて対応しきれず、困惑してしまう。
卓上を睨みつけたまま動けずにいると、後ろで物音がした。
弾かれたように振り向けば、そこには今まさに思い浮かべていた人が立っていた。

「何だ、帰っていたのか」

「…子桓さん」

廊下からダイニングに続く扉を開けて、さも意外そうに言い放ったのは、自分よりも年若い青年だ。
名前を呼ばれた青年は、何事もなかったように扉を閉めて、近寄ってくる。
司馬懿の低く唸るような声と、責めるような視線は、華麗に無視されている。
彼の名は曹丕、字を子桓。
関係は、と聞かれれば、恋人と答える。
敬称をつけるのは、彼が自分の上司にあたるから。
約束も連絡もなしにやって来て、明らかに家主に無断で家屋に侵入してきているが、それに関して特に問題視はしていない。
少々振り回されている自覚はあるが、それが当然のこととして、二人の間で共通認識がなされているからだ。
それでも司馬懿が渋い顔で彼を迎えたのには、勿論理由がある。

「これ、子桓さんの仕業ですよね」

「仕業とはなんだ、人聞きが悪い」

指差すのは、件の卓上だ。
こんな妙なことをするのは、勝手に出入りができて、しかも突拍子もないことをするこのひとだけであると、彼との長い付き合いの中で思い知らされている。

「そんなことはどうでもいいんです、説明して下さい」

「仕方ないな…その紙を見てみろ」

「紙?」

面倒臭そうに返され、苛立ちが募るものの、言われた通りに茶碗をずらしてみる。
すると、ちょうど茶碗が伏せられていた場所に、薄い紙だからだろう、うっすら文字が透けて見えた。
裏側に何か書かれているようで、ひっくり返してみれば、曹丕の筆跡で何事か書かれている。

「まつとしきかばいまかへりこむ…百人一首ですか?」

司馬懿でも聞いたことのある、有名な和歌の下の句だ。
それはわかるが、だから何だというのだろう。
答えを求めて曹丕を見ると、彼は肩を竦めて見せた。

「そうだ、有名なまじないだぞ、知らないのか?」

曰く、飼い猫が何日も帰ってこない場合、紙にこの歌の下の句を書いて、その上にいつも使っている餌入れを伏せて置いておくと、猫が帰ってくる、らしい。

「お前が出掛けて帰ってこないから、どれほど効果があるものか、やってみたのだ」

どうやらそれが曹丕の言い分らしい。
だが。

「いや…私はちゃんと出張に行くと言いましたし、帰ってくる大体の日も伝えましたし、そもそも猫でもないんですけど」

それなら司馬懿にも反論がある。
迷子のペット扱いは心外だと告げれば、曹丕はつまらなそうに溜息を吐いた。

「洒落の通じない男だな」

「誰にも通じませんよ、これは」

呆れつつ返せば、曹丕は拗ねたように司馬懿から例の紙を取り上げて、手遊びに折り畳んでいる。
その顔が、それこそ何だか放っておかれてこちらにちょっかいをかけてくる猫のように見えた。

「まじないなんて、効果がある訳がない」

だから、ほんの少し、その行為が可愛く思え、するりと言葉が滑り出す。

「大体、こんなことしなくても、あなたのところに戻って来ますよ」

そう伝えると、曹丕は目を丸くして、そして。

「意外だ、お前もそんな台詞を言えるのだな」

にやり、と口が歪められる。
こちらを揶揄おうと企んでいる顔だ。
失敗した、と司馬懿は顔を引き攣らせる。

「何だ、私が寂しがっているとでも思ったのか?」

「あーもう、忘れて下さい!」

しつこく絡んでくる曹丕から逃れながら思う。
いつもはそっけないくせに、寂しがりでそんなところが愛しくて、でもこちらが優しさを見せると軽くあしらって。 だが、それを何故か許してしまう。
ああ、やはり振り回されていると、認めざるを得ないのだった。








エンド







++++++++++

懿丕?です?
いつものことですがなんかよくわからん感じです。