■まほうのことば



『権、これは魔法の石なんだぜ』

まほうのいし?

『そうだ、これを持っていればいいことがあるぞ』

わたしがいただいてよいのですか?

『お前にだからやるんだ、大事にしてくれよな』

はい!あにうえ、ありがとうございます!



懐かしい夢を見た。
目覚めたばかりの心地良い微睡みの中で、その日のことを思い出す。
まだ幼かった孫権に、戦から帰ってきた孫策が、何処で手に入れたのか、贈り物だといって言って、「魔法の石」をくれた。
美しく乳白色に輝く石。
その正体を「翡翠」だと知ったのは、随分と後になってからだ。
兄がいいことがあると言っていたのは、恐らく古来より翡翠には不老不死の力があると言われているのを、幼子にわかりやすいように表現したのだろう。
その石は今も、大切に保管してある。
滅多に取り出すことのないそれを、たまには手に取ってみようか。
そんなことを思いながら、孫権は体を起こした。



今、呉は雌伏の時だった。
孫策が亡くなり、若い孫権が君主となったことで、各地の豪族や異民族が浮き足立っている。
実績のない主君ということもあり、群臣、将軍たちの中には、まだ孫権を認めていない者もいる。
針の筵のような状況の中、気を抜ける相手は限られてくる。
長く孫権自身に仕えている者、情勢に左右されず呉のために尽くす者。
だが、選り好みをできる立場にも時勢にもなく、会うべき人間は五万といる。
孫権の意思など関係なく、突然訪れてくるのだ。

「孫権様、よろしいでしょうか?」

「ああ、大丈夫だ」

「ありがとうございます」

竹簡から顔を上げる。
そこにいたのは、美少年といって差し支えない、孫権よりも更に年若い人物。
呉に仕え始めて間もない、陸遜という青年だった。
有能な人材ではあるが、心を許すまでには至らない、孫権自身、量りかねている相手である。

「では、この件はそのように」

「うむ、頼んだぞ」

だが、今のところ、怪しい動きもない。
才ある人間は存分に生かすべきだろうと、目をかけてもいた。

「それでは…あれ?」

常ならばそのまま退出する陸遜が珍しく声を上げる。
何か不備でもあったのだろうかといったんは落とした視線を戻すと、陸遜の関心は己の机の上、とあるものに向いていた。

「それが気になるか」

「あっ、申し訳ございません!」

「かまわない、珍しいか?」

「はい、翡翠…ですよね」

そこにあるのは、今朝記憶に甦ってきた、兄との思い出の品だ。
懐かしさから取り出してみたそれは、少しも輝きを失っておらず、またしまい込んでしまうのもなんだか惜しく感じられ、執務室まで持ってきたのだ。

「これは素晴らしい品です…高価なものなのでは?」

「いや、貰い物でな、詳しいことは判らんのだ」

触れはしないものの、至近距離で食い入るように見つめる姿に、苦笑交じりに答える。
兄がどのようにこの石を手に入れ、弟に渡したのか、幼かった孫権には知る由もなく、知らないことは然したる問題ではなかった。
孫策がくれたものであれば、無価値な道端の石ころでも、自分は喜んだだろう。

「大切な方からの贈り物なんですね」

「え?」

不意打ちのようなその言葉に、間の抜けた声が出てしまう。
思わずそのまだ少年らしさを残した、端正な顔を凝視してしまう。
すると、陸遜は少し慌てた様子で口を開いた。

「あ、あの、とても穏やかな顔をされていたので…それで…」

「気にするな、よく見ているのだなと驚いただけだ」

「そんな、主君を観察するなど、ご無礼なことは!」

「はは、怒っているのではないのだから、そんなに焦らずともよい」

すっかり恐縮してしまった青年に、微笑ましいものを感じる。
年齢の割に大人びていると思っていたが、その姿を見ると、年相応なところも残っているのだとわかる。
きっと彼も、周囲に見下されぬよう、必死なのだ。
そんなところは自分によく似ていると思うと、親近感も湧く。

「お前の推測通り、これは兄上からいただいたものだ」

「孫策様から…」
贈り主の名を告げると、陸遜は神妙な顔つきになる。
この気の使い方といい、観察眼といい、将来有望な人材だと、改めて実感した。

「価値など子供には分からなかったが、綺麗で、しかも兄上が下さったものだから、とても嬉しかった」

述懐しながら、腕を伸ばして指先でその表面を軽く撫で、滑らかな石のひやりとした感触を楽しむ。

「それに、兄上が仰っていた。『これを持っていると、いいことがある』と」

「いいこととは?」

「さあ、具体的なことは何も言われていない」

兄にそう言われればそれが真実で、だから事実がどうであれ、孫権には関係のないことだった。
盲目も言われても仕方がないほど、自分にとって兄は特別な存在だったのだ。
知己故の愚昧が妙に愛しく感じられ思わず顔が綻ぶ。
懐かしむ思いで石を玩んでいると、強い視線を感じた。
目の前にいるのは陸遜だけのはずで、いっそ敵意すら含まれていそうな、感情的な視線を向けられる意味が分からない。
不審に思い視線の元を探せば、そこにいるのはやはり、先程から話をしている青年だけだった。
穏やかな笑みを湛えるその表情に、激しさなど片鱗もない。
気のせいだったのだろうと、再度視線を戻しかけたところで、不意に声をかけられた。

「翡翠の石言葉をご存知ですか?孫権様」

不自然な程に凪いだ声音にはっとして、思わず心を乱される。
しかし陸遜の様子に変わったところはない、まるで人形のようだ。

「し、知らない」

威厳など微塵もない、素に近い返事になってしまうが、気にしていられない。
この年若い青年に圧倒されてしまう。

「色々あるのですが、中には、願いを叶えるというものもあるそうです。孫策様もこちらをご存知だったのかもしれませんね」

「あ、あ、そうかも、しれぬ、な」

得体の知れない感覚が孫権を苛む。
これは恐怖なのだろうか。
何とか返事はしているが、気を抜けば悲鳴でも漏らしてしまうかもしれない。

「他には、魔除けですとか、不老長寿ですとか―――あの世とこの世を繋ぐ、ですとか」

その言葉に他意はないはずなのに、知覚されないほどの微細な痛みが違和感を訴えている。
その石があったのに、その石があれば、その石がなければ。
様々な可能性がはっきりした像を結ぶ前に浮かんでは消える。

「孫権様」

まだぼんやりと思考の海に沈んだままの頭に、彼の声が響く。
密やかでどこか甘いそれは、孫権の中に侵食してくる。

「あなたの願いは何ですか?」

この国を守る、あの人の遺志を継いで、父のためにも、臣下たちのためにも。

「それはあの人の願いでしょう?あなた自身の願いは?」

「わたしの…ねがい…」

あの人はすぐに逝ってしまった。
置いていかれてから、周りにいるのは心を許せない人間ばかりだ。
一人は嫌なのに。
誰でもいいから。

「わたしの…そばにいてほしい…」

「かしこまりました、孫権様」

途端に意識が浮上する。
眠っていたわけでもないのに、先程までの会話が靄がかったように遠いものに感じられる。

「陸遜…?」

「私が、あなたの願いを叶えます」

「私の?」

困惑する孫権に、青年は莞爾と笑う。

「はい、あなたの国を守って見せます」

まだ力不足かもしれませんが、きっと孫権様のお役に立って見せますと言った彼の目は、強い意志に満ちている。

「そうか…うん、頼りにしている」

その堂々たる宣言に、思わず自然と笑みが浮かぶ。
先刻までの不安など、まるでなかったかのように、晴れ晴れとした気分だ。

「だから、―――」

「何か言ったか?」

「…いいえ、何でもありません」

聞き返しても、陸遜は首を横に振る。
そのまま一礼すると、颯爽とした足取りで退室していった。
何とはなしに机の上を見れば、そこには濁った白い石がある。
兄からもらった石は、こんな色だったろうか。
しかしすぐに些末なことだと頭から追いやって、広げられた竹簡に思考を奪われる。

『だからそんなただの石よりも、いつか私をそばに置いて下さい』

誰かが何かを囁いているが、それも無意識のうちに忘れてしまった。








エンド







++++++++++

策←権で陸→権っぽい。
ほのぼので終わらなかった。
途中よくわからないですが書いた人もよくわからないです。