■みのいたづらに



父が持っていた石を、見たことがある。
それは透き通った翠色をしていて、自分が知るどの石とも異なる輝きを放っていた。
それを時折取り出しては、酷く愛おしげに眺めていた父の姿を覚えている。
しかし、その姿を他人に見せることはしなかった。
意図的に誰の目にも触れさせまいとしていたのだと思う。
自分がそれを目撃したのも、本当に偶然だったのだ。
肉親にすら向けたことがないであろう、慈しむような眼差しで石を見つめる父を見て、漠然と、きっとあれはとても大切な人にもらったのだろう、と考えていた。
だが、父の死後、遺品の中にその石を見つけることはできなかった。
紛失したはずがないという確信があったが、その行方は杳として知れず、遂には幻だったのではないかとまで思うようになった。
もしあの石が見つかったとしたら、自分は、どうするのだろう。



兄が死んだ。
父が死んでからまだ数年しか経っていないというのに、呆気なく逝ってしまったものだ。
他人事のように思う。
未だ悲しみに暮れる人間も多い中で、淡々と処理を進める自分を見て、周囲は勝手な評価を下す。
悲しみを堪えて兄の後を継ぐべくひたむきに働く弟、兄の死にも心を動かさぬ冷血な弟。
所詮は他人の推測で、的外れもいいところだと笑ってしまいそうになる。
自分は人が思うほど健気でも、冷酷でもない。
興味がないだけだ。
欲しいと思ったもの以外はいらない。
国はいらない、後継者の地位もいらない。
ならば、何が欲しいのだろうか。

「諸葛誕」

常はまるで棒でも入れているのか、と揶揄いたくなるほどにまっすぐ伸びた背が、醜く曲がっている。
衣服越しでもわかるほどに背骨の浮き上がったその背中に向かって声を掛ければ、肩を大袈裟に震わせて、諸葛誕が振り返る。
記憶にあるよりも幾分か痩せ、目の下に隈も見られるその顔には、生気がなかった。
以前は司馬昭を見ると噛み付いてきていたが、この男は兄にいたく心酔していたからか、兄が死んでからは、これまでとはうってかわって大人しくなってしまった。
しかし、それよりも目を奪ったものがある。

「なあ、それ、何?」

「っ!」

指さしながら問いかけると、諸葛誕は酷く慌てた様子で胸元に握り締めた拳を抱え込んだ。
大事なものを隠そうとするその仕草が、琴線に触れる。

「こそこそ何やってんだよ」

肩を力任せに掴んで無理矢理振り返らせる。
露わになった諸葛誕の顔に浮かんでいたのは、恐怖だった。
大切なものを理不尽に奪われるかもしれないという危機感からくるものだろうか。
己を映す瞳にはありありと怯えが見える。

「っ貴方には、関係ないでしょう」

精一杯の虚勢なのだろうだろう、睨み付けてくる視線は弱々しいが、言葉には確固たる拒絶の意志があった。
その態度に苛々としながら、秘された物の正体を暴くべく、諸葛誕に詰め寄る。

「つれないこというなよ」

「ひっ…」

それほど威圧感を与える表情ではなかったつもりだが、彼にとっては違ったらしい。
口から洩れたか細い悲鳴が神経を逆撫でする。

「教えてくれるよな?」

肩を掴んでいる手に更に力を込める。
諸葛誕の痛みに歪む表情を見ると、僅かではあるが溜飲が下がった。
しかしその気分も長くは続かない。

「い、いやです…!」

「はあ?なんで?」

無意識のうちに冷ややかな声が口をついて出た。
諸葛誕はびくりと体を強張らせたものの、考えは変わらないようで、司馬昭の詰問にも口を割ろうとしない。
思い通りにならない男の存在、それはとても。

「…つまんね、もういいわ」

諦めて手の力を緩めると、すぐさま諸葛誕は後退り、距離を取る。
だが、威嚇してくる男に最早興味はないと、踵を返した。
何より、司馬昭は、彼が頑なに秘匿しようとしたものの正体が、朧げだがわかっていた。
記憶の奥底に沈殿しながらも輝きを失わず、いつまでも脳裏にこびりついたように離れない翠色。
あれはおそらく、父が持っていたものと同じ石だ。
行方知れずになってしまった不思議な石。
司馬昭も、あの石がどのようなものなのか、調べたことがある。
翠色の石は様々あれど、特に目を引いたのは翡翠だ。
よく知る翡翠―――玉とは全く異なる色と形に困惑したが、とれる場所云々と言われ、早々に理解を諦めた。
それはともかく、一度見たきりの石を探し当てられるものかと思ったものの、驚くほど自然にそれが正しい直感なのだと断言できる。
幼い頃から忘れられずにいたものの正体は、異国で持て囃される宝石だった。
何故父がそれを持っていたのか。
何故諸葛誕のもとにそれがあるのか。
何故自分はその存在を遠くから見ていることしかできないのか。

(そういえば)

兄は、知っていたのだろうか。
あの石のことを。



諸葛誕が反乱を起こした。
あの日、司馬昭を拒絶した日から、そう時も経っていない。
ただただ呆れてしまう。
何を思ってこのような愚行に走ったものか、想像することすら無意味だ。
案の定、味方に裏切られ、反乱軍はすぐに鎮圧された。
対峙した男の目はまっすぐで、すでに狂っているのかもしれないと思う。
殺せと言い放った諸葛誕はその言葉通りに命を奪われた。
その男の亡骸を司馬昭は見下ろしている。
丁重に葬れという己の言葉通り、晒し者になるでもなく、遺体は安置されている。
じきに埋葬されるだろうが、その前にやらねばならないことがある。
すでに諸葛誕の持ち物は調べ尽くした。
あるとしたら、ここしかない。
衣服を暴き、死者への敬意もなく、その体を隈なく探る。

「…何でないんだよ!」

しかし、望む結果が得られなかったことに、怒りが込み上げる。
探していたもの―――あの石は、やはり司馬昭の前に現れることはない。
欲したものは、己の手から零れていく。

(ああ、でも)

結局、自分が欲しかったものとは、何だったのだろう。
司馬昭には、何もわからなくなってしまっていた。










父が持っていた石を、見たことがある。
それは透き通った翠色をしていて、自分が知るどの石とも異なる輝きを放っていた。
それを時折取り出しては、酷く愛おしげに眺めていた父の姿を覚えている。
しかし、その姿を他人に見せることはしなかった。
意図的に誰の目にも触れさせまいとしていたのだと思う。
自分がそれを目撃したのも、本当に偶然だったのだ。
その日、床に臥せていた父の体調は、平素よりも落ち着いていた。
だから、一人にしてほしい、と言われても、問題ないだろうとその願いを聞き入れた。
それでも何かあってはと、密かに様子を窺いに来て、見てしまった。
父が、あの石を口に含み、そのまま呑みこむ姿を。
そして唐突に理解してしまった。
あの石の送り主も、その意図も、父の行動の意味も。
そして、その日から憑りつかれてしまったのだ。
同じようにその石を分かち、死後、再び黄泉で見える夢想に。

「諸葛誕…この石をお前にやろう」

「司馬師殿、これは?」

「これで、お前と私は―――」










「またお会いできるのですね、司馬師殿―――」

笑みを浮かべると、諸葛誕は一息に、その石を飲み込んだ。












エンド







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師誕←昭みたいな?
「われてもすえに」に繋がってるつもり。
改めて、ちゃんとした昭誕書いたことないなあと思う。