■いまひとたびの



ホウ統が死んだという報告を、曹操に与えられた屋敷で聞いた。
その瞬間、己が身を貫いた衝撃は筆舌に尽くしがたい。
大切な宝物を奪われた心地だった。
そして、同時に襲うのは、自責の念だ。
自分がいれば、彼を生かすことができたのではないかという思い。

(何ておこがましいんだ、俺は)

そもそも、そんなことを考える資格があるのだろうか。
あの日袂を分かち、敵として相対した自分に。
それでも愚かな自分は願ってやまない。
もしも、彼が死ぬことのない未来があるとしたら。
酷く身勝手で幸福な夢想だ。

(叶いっこないのにな)

あまりにも非現実的な考えに自嘲を漏らした。
自分で選んだ道だというのに、虚しさをぬぐいきれず、いつも無力感に苛まれてばかりだ。
頭を振って卑屈な考えを払う。
臨終には立ち会えなかったが、せめてその死を悼みたい。
滅多に飲まない酒を彼のために捧げようと、重い腰を上げた。
そこで、不意に音が耳に届く。
かつん、と硬質なもの同士がぶつかり合ったようなそれ。
例えば、石が床に落ちたような。
辺りを見回してみると、視界の端に光るものがある。
吸い寄せられるがまま近付いてしゃがみこむと、それを拾い上げた。

「…玉だ」

冷たい感触のそれを目の前にかざしてみれば、正体は珍重される宝石だった。
だが、玉衣に用いられるほどの洗練された輝きはなく、形も歪だ。
それでも不思議と目を引くのは、この石が持つとされる力のためだろうか。
不老不死など、徐庶は信じていないが、過去の偉人たちがそう考えた何かがあるのかもしれないと、実際に触れてみて感じる。

(どうしてこんなところに)

突然現れたとしか思えないそれに頭を巡らせていると、次第に頭がぼんやりとしてくる。
体に力が入らず、膝を折り、受け身もとれずに床に衝突しそうになった瞬間、意識を失った。



曹操軍が陣を敷いているのが見える。
目の前に展開される広大な陣は、異様なもののように劉備の目に映る。
迂闊に手を出せば、恐らく負ける。
だが、どうすればいいのか、見当もつかない。
成す術もなく、屈してしまうのだろうか。

「これは、八門金鎖の陣」

突然届いた言葉に、驚いて振り返る。
立っていたのは、顔を隠すように布を目深に被った男だった。
話を聞けば、この陣を破ることができるという。
素性の知れない人間であることに不安は残るが、藁にも縋る思いで指揮を頼むと、快く首肯された。
あまりにもあっさりと承諾されたので、疑問に思って尋ねる。

「何故、私を助けてくれる?」

「いやまあ…色々あります」

徐庶と名乗った男は、それ以上は答えることはなかった。



覚醒した瞬間、飛び込んできたのは戦場の匂いだった。
土埃と辺りに充満する独特の空気が、体に纏わりつき、神経を刺激する。
慌てて周囲を見回して、すぐさま悟る。

(ここは新野…!)

劉備と出会い、手助けをした戦場だ。
ある意味、全ての転機となった場所だった。
しかし、何故自分は此処にいるのだろう。
許昌とは随分と距離があり、何よりも自分が呼ばれるような大きな争いが起きているとも聞いていない。
戸惑いを隠せずに、更に観察を続けていると、とあることに気付く。
それはもう、捨てたはずの色。
魏に恭順し、青を纏った時に、二度と袖を通さないと決めたのに。

(俺はどうして…この服を着ている…?)

この緑色の衣装を。
だが混乱する頭で必死に考えても、結論など出ようはずもない。
そしてまるで化かされているのではと疑いながらも情報を集めるうち、更に信じがたい結論に行きつく。
ここは間違いなく新野の地で、今まさに勃発しようとしている戦は、曹操軍が統一に向けて、南征を開始した端緒、荊州に身を寄せる劉備軍との激突だ。
頭がおかしくなったのでなければ、自分は過去の新野にいるというのが、徐庶の出した結論だった。
まさしくあの日に戻ってきたとしか思えないのだ。
到底受け入れられるものではないが、実際にこうして戦場に立ち、あの時の空気の中にいると、とある考えが頭を擡げる。

(士元を助けられるかもしれない)

くだらないと一蹴した妄想を、試すことができる。
都合のいい夢を見ていると思えばいい。

(それに、もう一度士元に会える)

目が醒めれば辛い現実が待っているのだから。



旧知の男の来訪は、諸葛亮を驚かせた。
世の中が騒がしくなってきていることは知っていたものの、我が身を投じることはしないという決意を覆した一因は、間違いなく彼の存在だ。
劉備を言う男を連れて門扉を叩いた友は、しかしこの軍には留まらないという。
己の行く道を模索し続けている男のことだ、その道標を見つけたからこそ、自分に引き合わせたと思ったのだが。

「何処に行くのですか」

立ち去ろうとする背中に問いかけると、友は―――徐庶はこちらを見もせずに答える。

「俺は俺の在処を探す」

漂白を続けるのだという宣言とは裏腹に、その言葉に迷いはなかった。



失敗してしまった、と絶望するのと同時に、目の前が真っ暗になった。
そして次の瞬間には、またあの場所に立っていた。
もう一度やり直せるのだとわかった時は、単純に嬉しかった。
彼を救うことを諦めなくていいのだと思った。
それから、思いつく限りの道を探した。
新野で劉備を助ける道、助けない道、諸葛亮と会わせる道、会わせない道、劉備軍に留まる道、立ち去る道。
可能性は無限にありそうで、しかしそのいずれもが徐庶の求める道には通じていなかった。
もう幾度やり直したかわからない。
それでも、まだ終わりではないのだと思えば、苦痛ではなかった。



どうしてこうなったのかと、ホウ統は頭を抱えたくなった。
連環の計は一人の男によって阻止された。
曹操への打撃は決定的なものにはならず、南進を断念させることは難しくなっただろう。
そして自分は、何故が許昌にいる。
いや、連れて来られたのだ、他でもない、忌わしい男によって。

「士元、具合はどうだ?」

「…最悪だねぇ」

そう返事をすれば、困ったように苦笑された。
男のそんな反応は、ホウ統には懐かしくも慣れたものだった。
仕方がないねぇ、とかつては笑って許したものだが、それも今の状況では難しい。
怒りを隠すこともなく男を睨み付ければ、その視線に貫かれ、苦しそうに顔が歪められる。
不可解な反応は、ホウ統を更に混乱させた。

(どうしてお前さんがそんな顔をする?)

この男―――徐庶こそが、連環の計を破った張本人だというのに。
魏に身を置いたと風邪の噂で聞いていたかつての友は、策を止めるためにホウ統を攻撃し、拘束した挙句、ここまで連行したのだ。
だが、曹操の元に突き出されるのかという想像と反対に、徐庶は自らの邸でホウ統の手当てをし、保護のような真似を始めた。

「何が目的だい?」

その思考が全く読めず、幾度となく投げかけた問いに、男はただ微笑みを返すばかりだ。
おぼろげながらわかっているのは、自分はもう、ここから逃げることは叶わないだろう、ということだけだった。



何回目か、何十回目か。
数えることも無意味と思える程の回数を繰り返してようやく悟ったのは、自分がホウ統の傍にいた方が都合がいいらしい、ということだ。
その方法も、自らが劉備のもとに行くことが望ましいようだとわかったのは、意に彼を連れ帰った後に、またあの地に立っていたためだ。
劉備の帰順する時期も大事で、どうやら一度、曹操の元へと行かねばならないなど、随分限定的だ。
それらを合わせると、赤壁での戦での恭順が自然だろうと、彼の人物の元へ投降する術を探った。
ここでも何度かやり直しを余儀なくされたが、その甲斐あって、自然に劉備軍に合流ことに成功する。
そこには勿論ホウ統もいて、彼の顔を見ると目的を忘れてしまいそうになるが、あと一息だと気を引き締める。
だが、それは甘い考えだったと、すぐに知ることになった。



目の前で絶えた命はそれなりの衝撃を法正に与えた。
成都を陥落した喜びも束の間、戦いの最中に負った傷でホウ統が死んだ。
劉備軍が入蜀してからの短い付き合いではあったが、乱世の常とはいえこうしてその死に直面すれば、やはり感傷というものはある。
己でさえそうなのだ、情に厚い魏の将軍や、級友たちはさぞ無念だろうと、何気なく目をやる。
そこには固い表情で拳を握り締める男がいた。
一見友の死を悼む姿に見えるが、それだけではない何かを感じて、男の傍に忍び寄る。
様子を注意深く窺ううちに、その目が酷く冷めていることに気付いた。
むざむざ死なせてしまったことを悔やむのではない、淡々と状況を分析し、対策を講じようとしていると、法正の目には映る。
まるで、また同じことが起こると確信しているとしか思えない、不自然な態度。

「おい」

「……何、かな」

その肩を掴み、無理矢理こちらを向かせると、男は邪魔をされたとばかり、不機嫌に応える。

「何を考えている」

ますます募る不信感に、きつい口調で詰問すれば、男は何故か力無く笑う。
その底知れぬ悍ましさに、咄嗟に男から―――徐庶から距離を取る。

「助ける、方法を」

質問の返答なのだろう、それだけ呟くと、男はその場を立ち去った。
それは答えにもなっていないものだったが、法正にはわかってしまった。
あの男は、たった今失われたものを救いたいのだと。
狂気じみたその願いに、柄にもなく背筋が凍る思いがした。



もしかすると、彼の死を目の当たりにしたのは初めてだったかもしれない。
何故彼を独りで行かせてしまったのか、悔やんでも悔やみきれない。
助けられたかもしれないのに、という僅かな希望が、みすみす死なせてしまったという絶望を増幅させる。
だが、とすぐに気を取り直す。
次に間違えなければいいのだ。
最早見慣れた新野の地で方策を練る。
ホウ統が出陣しないのが最も安全だが、それは難しそうだ。
そもそも彼が奇襲を受けた地点がわからない。
潜伏できそうな場所を探す時間もない。
ならば、自分がついていれば、打開策が見つかるかもしれない。

(いざとなったら、俺が)

不意に脳裏を過ったその考えは、最善の策のように思えた。
前回と同じように劉備軍に戻れば、そこにはホウ統がいる。
その姿を見るだけで胸が苦しくて直視できずにいると、様子のおかしい徐庶に気付いたのか、彼が近付いてきた。

「どうしたんだい、そんな顔して」

「え、っと、その、緊張してる、のかな」

「ああ、それはしょうがないねぇ、あんまり気負うんじゃないよ」

お前さんはちょっと考えすぎだからねえ、と優しく笑うホウ統に、徐庶も自然と笑みを浮かべた。

「うん…ありがとう」

いつもこの笑顔に救われてきた。
どうしても彼を守りたい、という思いが一層強くなる。

(そのために俺がいるんだ)

もうすぐ、進軍が開始される。



一体何が起きたのだろう。
崖上から矢が放たれたと思った次の瞬間、目の前に体中を矢で貫かれた徐庶がいた。
膝からくずおれた体を何とか抱き止めて、必死にその名を呼ぶ。

「元直、しっかりしな!」

「ああ…士元…無事で、よかった…」

血に濡れた手がこちらに向かって伸ばされる。
心配されるべきは明らかに重傷を負った彼自身であるというのに、何故かホウ統のことを気に掛ける男は、傷の所為で狂ってしまったのだろうか。

(どうして笑ってるんだい…!)

知己である男が知らない人間に見える、それほどの狂気。
恍惚と言っていいほどの歓喜に彩られたまま、男の目がゆっくりと閉じられていくのを、ただ怯えながら見ていることしかできなかった。



目を開けるとそこは、いつものあの戦場だった。
希望に満ち溢れた地―――そう信じてきた新野の地で、徐庶は悲嘆に暮れる。

(…俺は何故戻ってきた?)

結局奇襲を根本から絶つことが叶わず、ホウ統の盾となって、降り注ぐ矢を一身に引き受けた。
彼の命が無事だったことを確認し、充足した気持ちでやり遂げたと思ったのに、どういうことだろう。

(これ以上、どうしろっていうんだ)

感じたことのない絶望が襲ってくる。
体の震えが止まらずに、たまらず己が身を掻き抱く。

(あのまま―――あそこで死ねたら、幸せだったのに)

意識が途絶える直前の、彼の腕の中に抱かれた温もりが鮮明に残っている。
底知れぬ『終わらない』という苦しみを背負って、徐庶はまた歩き始めた。








エンド







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逆行が徐庶に嵌りすぎると思ったという話。
ちゃんと助けてあげられるエンドも考えたんですけどギャグっぽくなったのでやめた。↓

「士元、よくやってくれましたね…で、その後ろにくっついているのは何ですか?」
「あっしが教えて欲しいよ…戦が終わった途端、死ななくてよかったとか何とか言って抱きついてきて、そのままさ」
「………(ぎゅうっ)」
「まあ、伏兵が貴方を狙っていたそうですし、安心したんでしょう」
「ちょっとばかし大袈裟な気がするけどねえ…」

みたいな。