安穏と生きるよりもの道を

























「…謙虚な事だ」

 曹丕が手の内で高坏を揺らしながら言った。足下には跪いた若い男が一人。 つい最近、曹丕の教育係として曹操に配された男であった。

「しかし意外な。司馬家には功名心があるものだと思っていたのだが」

 主の褒とも貶ともつかぬ言葉に応えた青年…司馬懿は、『恐れ入ります』と飄々とした風情で応えた。 微笑さえ浮かべたその臣下の表情には隠しきれない鋭い才能が垣間見え、乱世に未だこの様な男が隠れていたのかと曹丕を驚かせた。
 世評や常識を物ともせず、曹操を評価し官界に入れた司馬防。
 十余りで科挙に合格し、官吏として頭角を表した司馬朗。
 その他司馬懿の弟達は司馬の八達と呼ばれ、それぞれに活躍をしている。だが司馬懿だけは例外だった。 一族で一番の実力を持ちながら田舎で下級官吏をし、子供を教えることで細々と糊口を凌いでいたという。
 やはり他者と一線を画す才を持つ者は、俗人の欲とは無縁なのだろうか。
 そんな事をつらつらと思う曹丕に司馬懿は微笑ましいと言わんばかりの穏やかな笑顔で、くすくすと笑う。

「功名心がなかったと言えば嘘ですが、それも司馬の八達と言われただけで満たされていたと思います。 ……とは言え、あくまで昔の話ですけれども」
「ほう?」

 曹丕が面白そうに身を乗り出した。間近で視線が交わる。
 覗き込む様にした臣下の眼差しはいつになく熱っぽく、妖艶に煌いていた。 いつになく熱っぽく語ろうとする側近が珍しく思いながらも、 もしかしたらこれこそが臣下の本当の姿なのかも知れぬと心の片隅で感じる。

「今の私は、功名に心を逸らせた愚かな男。 魏に司馬仲達在り……否、魏の曹子桓には司馬仲達在り、と四海と歴史に轟かせたく思います」
「四海と史書に、とは…以前より大きく出たな」
「貴方が地位を確立するためには、名も残らぬ無能な側近ではなりませんでしょう?」
「当然だ」

 臣下の問いに何の躊躇いも無く頷いた。
 自らの道は平坦な路では決して無いのだ。 曹丕が名を残すには自らの優秀さも勿論だが優秀な臣下を揃えねばならず、それが出来ねば自らも危ういからである。

「古の優秀な君主は皆、有能で良き臣下を従えております。 子桓様もまた、いずれは魏王に、ゆくゆくは帝位にお付きになられる御方。 ならば有能な臣下として貢献するのも、私の使命でございましょう」
「しかしそうなれば、昔のお前の望みは永久にもう叶わぬかも知れぬぞ?  加えて、私がお前を側から離さぬ。例え私がお前より先に死んだとしても、益々叶わぬだろうがな」

くっ、と曹丕が笑う。ひたりと見つめてくる臣下に気を良くしてか、饒舌に言葉を次ぐ。

「今度は時代がお前を離さぬ。 群雄割拠している時代でさえお前程の才覚の者は滅多にいないというのに、次代はどいつもお前に劣る」
「存じております」

 主の蒼い衣の裾を捧げ、口付けた。仰げば年若く美しい主がじっと司馬懿を見つめていた。その視線は強く冷たく見える。 だが司馬懿はその視線が緩む事も知っている。
 初めて対面した日は流石曹操の息子だと思い、腹底を見透かさんとする冷たい眼差しに緊張が走ったものだが、 曹丕を知った今ではそれが司馬懿だけに与えられる視線なのだと気づいていた。 されば、逆にその冷たさが司馬懿への執着のようにも思えて愛おしく感じる。

「貴方様の道にお供をしていくと決めた日から、既に覚悟は決めております」

 凡人を教え諭し先生と仰がれ、中央から遠く離れた郷里で細々と計算に取り組むだけの日々。 それは戦とは無縁で平和な日々であろう。
 しかし曹丕の下に在る為にはその穏やかな全てを捨て去らねばならぬ。
 曹丕は不遇の嫡子。曹丕の望みを叶え、命を守る為には、何でもせねばならぬ。 政敵を陥れ、或いは殺し、同輩や身内にすらも刃を向けねばならぬ。到底、血を避けられる訳がない。
 一瞬でも迷わなかったと言ったら嘘になる。だが覚悟はすぐに決まった。

「もう安穏と生きようとは思いませぬ。私が歩みたいのは……貴方の歩む他者の血と欲に染まった茨の道のみなのですから」

 我が君、と不思議と尊く感じられる言葉を口にすると、自然と微笑が漏れる。 主もまた満足げに笑んで、心得たように臣下の細い顎を攫ったのであった。









 終





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 この後、初ちゅ(切断)
 仲達は、魏に仕官する前、下級官吏(会計士?)をしつつ近所の子供等に教えていたそうです。
決してニートでは無かった模様。
 ただ、仲達の家柄からするとかなり低い官職だったので、フリーターかアルバイターに近い感じなのかも。



                     ikuri  11/02/20