■捩伏せてでも、自分だけのものにしたい



近頃気になる部下がいる。
新人ではないが、ベテランというにはまだ若い、二十代半ばの男性社員だ。
確かに優秀ではあるが、プライベートでは関わりもなく、特に目をかけている訳ではなかった。
司馬懿はディスプレイから顔を上げて、さりげなく視線を巡らせる。
少し離れた席に座って、黙々とキーボードを打つ姿が目に入った。
以前はこんなことはなかったのに、どうしたことだろう。

(あの飲み会の所為だ…)

無意識に眉が寄るのがわかる。
思い出すと頭が痛くなり、眉間を揉んで気を紛らわせていると、彼の目がこちらを向いた。
視線はすぐに逸らされたものの、その口元がゆるりと上がるのが、確かに見えた。



打ち上げだったか慰労会だったか名目は忘れたが、催された会社の飲み会に役職持ちとして形ばかりの参加をした時のことだ。
適当に話をしながら部屋を見渡すと、時間が経てば自然と同期や課などのグループに固まってくるが、隅の方でぽつんと座っている人間を見つけた。
その顔が見知ったものだったことに驚きつつ観察すれば、その人物はつまらなそうに皿の上のものに端を伸ばし、時折グラスに口をつける。
周囲の人たちは、その人物のことを気にも留めていない。
だがそれは、その人物も同じに見えた。
きっと他の誰も、その目に入っていないのだろう、と納得してしまう。
しかし放っては置けないのは、その人物が自分の部下だからだ。
課内の不和の原因になっては困るし、会社で優しい上司で通っている。
面倒だが、これも仕事の一環だと、腰を上げてその人物に近付く。

「曹丕君」

「…課長」

笑みを浮かべながら、隣に腰を下ろす。
部下の青年―――曹丕は、少しだけこちらを見て、すぐに視線を外した。
少し無愛想とはいえ、礼儀正しい青年には珍しいことだと思う。

「体調でも悪いのか?」

「いえ…」

「そうか…」

聞いてみても、返ってきたのはぼそぼそした否定の言葉だけで、かえって心配になる。
しつこいと言われるのを承知でもう一度訊ねる。

「本当に…」

「司馬課長」

だが、その言葉は相手に遮られる。
先程とは明らかに異なる、はっきりと意思を感じられる口調で。

「わかりませんか」

視線が合わせられた。
まるでこちらを見定めようとする目に呑まれ、思わずたじろぐ。
何も言えずにいると、彼の目がすっと細められる。
そこに滲む色に息をのんだ。

「わざとですよ」

「わざ、と」

嘲るように歪んだ唇は、酷く妖艶に目に映る。

「わざと独りでいるんです、話をしたくないので」

挑発的な言葉も相まって、別人と対峙しているとしか思えない。
彼のことを理解していると自惚れていたつもりはないが、それでも衝撃が大きい。

「あなたでしたらわかると思ったのですが。―――つまらないでしょう、こんなところで、くだらない会話に付き合わされるのは」

曹丕はそう言って司馬懿から外した視線を周囲に巡らせる。
その目は冷たく、嫌悪さえ感じられた。
視界に入れることすら不快だとでも言うように。

「なので、そろそろ帰ろうかと思っていたのですが…」

義理は果たしたとばかり、溜息混じりに零し、グラスに半分以上残ったままのビールや中途半端に箸をつけた食事を、如何にも興味がなさそうに一瞥して、またこちらを見据える。

「気が変わりました。一緒に抜けませんか?」

その目に見つめられて、ごくりと喉が鳴った。



結局、その誘いに乗ることはなかった。
できなかったといってもいい。
曹丕はと言えば、それも見越していたのか、残念です、と笑って宴席を辞した。
次に会社であった時には司馬懿が知る彼そのもので、周囲にもそつなく馴染んでいる。
あの時間は本当に現実だったのか、疑わしく思える程、いつも通りだ。
だが、時折彼が見せる表情が、司馬懿の願望に近いその疑念を否定する。
なかったことになどさせない、と言わんばかりに。
それでも何かが起きる訳ではなく、これまでと同じ日常が流れていた。
しかし、それが一変したのは、ある夜のことだった。
残業を終え、会社を出た司馬懿は一人帰路についていた。
人々が足早に歩く中に紛れて歩きながら、最寄駅が見えたところで、その近くの路上に停車する車に気付いた。
この場にそぐわぬそれは見るからに高級車で、運転手と思しき人物が歩道側、後部座席の扉を開ける。
何となくその様子を眺めていた司馬懿は、そこから降りてきた人影の顔が認識できる程度に街灯に照らされてようやく、その顔に見覚えがあることに気付いた。

(曹丕君…?)

近頃頭を悩ませている原因である青年の姿に驚く。
今日は定時で退社したはずだが、何故此処にいるのか。
呆然と眺めていると、彼の視線が中にいる人物に向けられる。
車内灯の僅かな光では判然としないが、車内にいるのは壮年の男性のようだった。
目を凝らしてみれば、薄明かりに浮かぶ曹丕の顔が、優美に笑う。
司馬懿にはそれが衝撃だった。
それから一言二言言葉を交わし、彼は駅の中に姿を消した。
まもなく車もその場を走り去る。
我に返った時には、そこには今見た光景の名残すらなかった。
曹丕に関する噂を耳にしたのは、その夜からすぐのことだ。
たまたま部下たちが話しているのを聞いたところによれば、彼は頻繁に社外の男と会っているということだった。
その人物は毎回異なり、社外では見たことのないような表情でいるらしい。
眼帯をつけた男と有名なホテルのロビーで会っていたところを見た者は、彼が危険な取引でもしているのではないかと言った。
髭面の男とレストランで食事をしている場面に出くわした者は、社内の情報をリークしているのではないかと疑っていた。 父親ほど年の離れた男と車に乗る姿を目撃した者は、売春でもしているのではないかと嘲った。
だが、誰ひとり本人に真相を訊ねる勇気はなく、当人もそんな噂は知らないとばかり、無関心でいる。
司馬懿自身も、あの夜のことの整理がついておらず、明確に否定できない。
それどころか、飲み会の日に見た笑みが脳裏を過ると、真実なのではないかとさえ思ってしまう。
その間にも課内の空気が悪くなっていくのが手に取るように分かり、流石に放っておけない状況になって、漸く司馬懿は腰を上げた。
社内でできるような話ではないので、仕事が終わった後に食事でも、と曹丕に誘いを掛ければ。

「えぇ、構いませんよ。そちらがよろしければ、今日にでも」

あっさりと承諾さえ、拍子抜けしてしまう。
気を取り直し、早い方がいいだろうと、今晩の約束をして、その場を離れた。



就業時間を終え、会社を後にする。
特に場所の希望はないと言われ、店は会社から少し離れた駅にある大手チェーンの居酒屋を選んだ。
ふと、曹丕が目撃された場所に、高級フレンチレストランがあったことを思い出す。
少し見栄を張るべきだったかと思ったものの、張り合ってどうするのだと己の思考に呆れた。
完全個室を謳うその店の狭い部屋に通されて、ひとまず飲み物と何品か簡単なつまみを注文する。
それらが運ばれてきて、形式的に乾杯をしながら、司馬懿は、話を切り出すタイミングを窺っていた。
しかしこちらが躊躇している間に、相手が先手を打ってきた。

「それでは、聞きたいのは最近噂になっている件でよろしいですか?」

「…噂は、知っているんだな」

「あれだけあからさまに見られて、気付かない方がおかしいでしょう」

言っていることは間違っていないが、その言葉には棘がある。
しかも噂を知りながら放置していたらしい。
理解しがたい行動に、若干の憤りを感じながら、厳しい口調で問う。

「君が会社に不利益になるような行為をしているというのは、本当なのか」

スパイならば背徳行為だし、売春ならば露見すればイメージを損なう。
いずれにせよ懲罰は免れないのだが。

「不利益というと、具体的には?」

返答次第では進退に関わるというのに、曹丕は惚けたように聞き返してくる。
まるでこのやり取りを楽しんでいるかのようだ。
不真面目にも見える態度に苛立ちは募る。

「許昌グループの会長秘書や社長秘書と、ホテルやレストランで会っていると目撃した人間がいる」

「会いましたね。昔からの知り合いなので、たまに食事をします」

それが何か、と逆に問われ、眉を顰める。
相手までは調べがついたのだが、彼のいうとおり、それだけなのだ。
疾しいことがあれば少しは動揺するかと鎌をかけたのだが、そんな様子もない。

「では、援助交際のようなことをしていたというのは?」

「ありえませんね。大体、そのようなことをするのに、態々会社の近くを選ばないと思うのですが」

曹丕の言うことはいちいち正論で、こちらが難癖をつけているようにさえ思える。
最早意地になって質問を続けた。

「…それなら、あの高級車は?一緒に乗っていたのは誰なんだ」

あの日の光景を思い浮かべると、言い様のない不快感が襲ってくる。
苦々しい表情で曹丕を睨むと、彼はしばし目を丸くして、それから目を細めて笑った。
その場にそぐわぬ愉しげな笑みに、司馬懿は身震いする。

(何故そんな顔をする)

一体その笑みが何を意味するのか、計り知れない。
言葉を失う司馬懿に、曹丕が口を開く。

「あれは、父です」

「…なんだと?」

途端に浮かんだ悪戯が成功したとばかりの笑みに、間抜けな声が出た自覚がある。
くすくすと笑い声を零した曹丕の言葉が耳に入ってくる。

「曹操という名前を御存知ですか」

「…許昌グループの会長?」

一代で巨大商社を立ち上げた有名な人物だ。

「ええ、そうです。私の父は、許昌グループの会長です」

つまり彼は、許昌グループの御曹司ということになる。
確かに苗字は同じだが、そんな情報は、上司である司馬懿に伝わっていない。

「会社は兄が継いでいます。うちは兄弟が多いので、私は好きにやっているんです。まあ、身分を隠すのに少し力を借りましたが」

「…そうやって隠すと、疾しいところがあると思われても仕方ないぞ」

「そこは信じていただくしかありませんね。一つだけ言わせてもらえるのであれば…私は、父の操り人形になるつもりは毛頭ない、ということだけです」

一瞬見せた真剣な眼差しに、その言葉には嘘はない気がした。
それも、数年間上司として彼を見てきただけの直感に過ぎなかったが。
だが、社内の空気も問題だ。
これ以上話が拗れる前に何らかの対応をしておかなければならないだろう。

「噂はどうするつもりなんだ」

「適当に火消しておきますよ、大したことではありません」

「…それならば、こんなことになる前に、何とかできなかったのか」

あまりの言い草に、もっとうまく立ち回れ、と責める口調になってしまう。
無用な手間を掛けさせられたのだと思うと、腹立たしい。

「ああ、それは、あなたを困らせたくて」

「…なんだと?」

渋面の自分とは正反対のけろりとした表情で、彼はこともなげに言い放つ。
その内容は理解しがたく、否、理解を拒む意味もあって、咄嗟に聞き返した。

「ですから、あなたを」

「いやいい、何度も言うな」

半ばいやがらせだろう、律儀に反復しようとする曹丕を制して、頭を抱える。
この青年は一体何を言っているのか。
その意図を探ろうと考えを巡らせたが、徒労に終わる。
きっと彼の思考など、自分には到底及びもつかないのだ、と諦めすら覚えた。

「私は、そんなに尊敬に値しない上司か…?」

結局思いついたのは、そんな結論で、情けない気分に陥りながら弱々しく呟く。
少しは慕われていたつもりだったので、自らの推測に若干落ち込みながら相手の言葉を待つ。

「まさか、そんなことはありません。あなたのことは、あの会社の中では一番気にっているんです」

思いもよらない返事に思わず見つめた曹丕は、先程とはまた違う笑顔を浮かべていた。
相手をいたぶって楽しんでいる、サディスティックなそれ。

「ただの出来のいい部下、ではあなたは気にも留めないでしょうし」

許容範囲を超えた情報を処理できないでいる司馬懿を置いて、曹丕の告白は続く。

「それに、いじめられるの、お好きではありませんか?」

「…誰がだ」

ね?と首を傾げて笑う部下に漸くそれだけ返す。
目いっぱい眉を顰めてグラスの中のいつの間にかぬるくなったビールを飲み干した。
曹丕はまだ笑っている。
彼の言葉に胸をわし掴まれたようなときめきを覚えたなど、決して認められるものではないのだ。








エンド







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現パロでお題シリーズで懿丕。
女王様受の丕様はたまらんですね。