■他の誰も愛してはいけないよ



関索には二人の兄がいる。
長兄は関平と言い、意志の強い凛々しい面持ちながら、柔和な笑みを絶やさぬ人だ。
次兄の名は関興、涼しげな表情の物静かな人だが、本当は優しい人だ。
下には関銀瓶という妹もおり、関索には兄妹が多い。
その中で、いつも関索の世界の中心にいるのは、長兄である関平だ。
より年の近い次兄は幼馴染といることが多かったため、長兄がよく関索の面倒を見てくれていた。
幼い頃、気弱な性格からいじめられがちだった自分を、長兄はいつも助けてくれた。
泣いていれば穏やかに笑みを浮かべながら、頭を撫でて慰めてくれた。
関索は、その笑顔が大好きで、だから今でも兄離れができずにいる。

「お帰りなさい、兄上」

「ああ、ただいま」

扉が開く音が聞こえて玄関に向かえば、そこには予想した通り、スーツ姿の長兄がいた。
声を掛けると、仕事で疲れているだろうに、そんな様子は微塵も見せずに笑いながら関平は言葉を返してくれる。
社会人になって独り暮らしを始めた長兄の住む部屋に、高校生の関索は度々訪れていた。
実家を出てしまうことによって会う機会が減ることを寂しく思っていると、兄からいつでも来ていいと言われ、その言葉に甘えるように、学校が終わると彼の部屋を訪れている。

「夕飯はお済みですか?」

「いや、まだだ」

「では、作ってありますので、ご一緒してもいいですか?」

「ああ、いつもありがとう。一緒に食べよう」

このやり取りも最早恒例になっている。
快く承諾してくれた長兄に、汗を流すように促し、風呂場に向かう背中を見送ると、関索は弾む足取りで台所に向かった。



夕食と後片付けを終えると、家に帰るまでの間、長兄と話をして過ごす。
僅かな時間だが、彼と話ができる至福の時だ。

「学校、今日はどうだったんだ?」

関平はそう言って、関索の様子をいつも尋ねてくる。
恐らく、昔自分が周囲に馴染めていなかったのを今でも気にかけてくれているのだろう。
その優しさを向けられていることが嬉しく、心配をさせないよう、なるべくクラスメイトや部活の仲間との話をするようにしている。
ただそれは、自分が他人とうまくやっていけると知った兄が、離れていってしまうのではないかという恐怖と紙一重ではあったけれど。

「いつも通りでしたが…あ、部活で、週末に他校と試合がある部の応援に行くって言われました」

「そうか、どこに行くんだ?」

「陽虎学園です」

その刹那、長兄の顔が嫌悪に歪んだ気がしたが、次の瞬間にはいつもの表情に戻っていた。
確かに関索が在籍し、かつては関平も通った大徳工業は、陽虎学園と伝統的に仲が悪い。
自分もあの学校まで出向くのは気が進まないので、優しい長兄でもそう感じることもあるだろうと、己を納得させる。

「わかった、頑張れよ」

「はい!」

ささやかな疑問は、笑いながら頭を撫でてくれた兄を見れば、すぐに霧散した。



「ただいま帰りました」

「ああ、お帰り」

実家の扉を開けると、居間から次兄が顔を出す。
他の家族たちは外出していると朝に聞いたかもしれないが、今の関索にはどうでもいいことだった。
いつになく荒々しく靴を脱ぎ、それを見て少し驚いた様子で立ち尽くす関興の横をすり抜けて台所に向かう。
思い切り捻った蛇口からグラスに水を注いで、一気に飲み干した。

「どうしたんだ、何かあったのか」

はあ、と大きく息を吐いたところで、追いかけてきたらしい関興が問い掛けてくる。
明らかに様子のおかしい弟を訝しむ彼に気付き、ようやく己の醜態に思い至って、気まずくなった。
思わず視線を逸らして、すみません、と蚊の鳴くような声で謝罪の言葉を漏らす。

「怒っている訳じゃない。お前がそんな風になるのは珍しい…余程何かあったとしか思えない」

あくまで冷静な次兄の言葉は、寧ろ関索の羞恥を呷る。
だが、だんまりは許してもらえそうもなく、渋々口を開いた。

「今日、陽虎学園に行って」

「ああ、朝そう言っていたな」

「そこに、嫌な奴がいて…」

それを口にした途端、頭の中に相手の姿が浮かんでくる。
身長は同じくらいだった。
さらさらの髪の毛、整った顔は、美青年と呼ぶに相応しい。
生徒会役員だという肩書に違わず、制服を隙なく着こなした姿はいかにも優等生だった。
爽やかな笑みを浮かべて、試合を終えた自分たちに近付いてきたその生徒は。

「残念でしたね、こんなに盛大に応援までしたのに、って言われたんです…」

普段ならば歯牙にもかけないような安い挑発だ。
しかし、相手も場所も状況も、すべて悪かった。
それに乗ってしまったのは、まさに一生の不覚だ。

「それで、かっとなって、言い争いになってしまって…」

今思い出してみてもあまりに幼稚だった。
相手も、優位に立ってけしかけるようなことを言ってきたくせに、こちらの言葉にむきになって言い返してきた所為で、収拾がつかなくなったのだ。

「つまり、馬鹿にされて苛々しているのと、口喧嘩が今更恥ずかしくなってきて、機嫌が悪かったんだな」

「はい…」

的確で歯に衣着せぬ指摘が、ますます居た堪れない気分にさせる。
関興の言う通りなのだが、あの男だけはどうしてもそりが合わないと、たった数十分の邂逅で確信した。
まるで前世でよっぽどの因縁があったとしか思えない。
あれが天敵というものなのだろう。
できればもう一生会いたくない。

「本当に抑えが利かなかったんです。あんなに怒ったのは、初めてかもしれません」

大きな喧嘩に発展はしなかったものの、その後周囲にまで気遣われてしまい、休み明けの学校も憂鬱だ。
深く溜息を吐いて、肩を落とす関索に、次兄はというと。

「…その話、兄上にはしないようにな」

「え?…言えません、こんな話」

「…ならいいが」

存外真剣な表情で諭され、そもそも言うつもりもなかったが、頷いておく。
尚も絶対言うなよと念を押す関興の真意はわからなかった。



合鍵で開けた長兄の部屋に入り、学校の鞄と食料品の詰まった袋を床に下ろしたら、気が抜けて床に座り込んでしまう。
当然ながら仕事へ行っている部屋の主はおらず、照明の付いていない夕方の室内は薄暗い。
週末の出来事の所為で休み明けの学校はいつも以上に憂鬱だった。
自己嫌悪と憤りを引き摺ったままでささくれた神経が、長兄の部屋に入った途端、癒されたように感じたのは、自分でも苦笑してしまう。
傷付いた時に長兄を求めてしまうのは、身に染み着いた防衛本能のようなものだろうか。
いくらか気が楽になったところで、食材を冷蔵庫に詰めるために立ち上がる。
そのまま夕食に支度にとりかかり、あらかたの準備を終える頃には、長兄が帰宅した。
数日前と同じやり取りをして、食事を済ませた後、そういえば、と、関平が尋ねてくる。

「土曜日の試合はどうだったんだ?」

「えっ!?あ、あぁ、試合…ですか…」

何の気なしの質問だったのだろうが、不自然なまでに口籠ってしまう。
次兄にも告げたとおり、話をするつもりはなかったが、誤魔化し方は考えていなかった。

「…どうした?何かあったのか?」

「あ…えっと、その…」

これでは彼の言葉を肯定しているも同然だ。
そもそも、長兄に隠し事をするという意識が関索にはない。
昔から、全てを話してきたためか、やり方がわからないのだ。

「関索…?」

怪訝な表情で名前を呼ばれれば、これ以上黙っているのは限界だった。

「あの、他校の人と、し、知り合いになったんです…!」

そして咄嗟に出たのは、真実とは似ても似つかぬ嘘だ。
喧嘩をしたとは言えない関索の、苦肉の策だ。

「知り合いに?」

「陽虎学園の生徒会の人らしいんですけど!試合の後、残念でしたねって、声を掛けてくれて!」

言っていることは嘘ではない。
好意的な解釈をすれば、ではあるが。
それでも、後ろめたさから無意識に声が大きくなる。

「それで…!」

「関索」

静かな声に、動きが止まった。
呼び方も声音も、おかしなところなどないのだが、いつもと何かが違う。
普段ならば喜んで答えているはずの呼び掛けが恐ろしい。
得体のしれないその恐怖に、喉が張り付いたように声が出ない。
早く返事をしなければと思えば思う程、焦って頭が真っ白になる。

(怖い、なんて)

兄に対して怯えるなど、初めてのことだった。

「関索?」

再度名前を呼ばれ、我に返る。
今度の声は、先程からは考えられないほど、優しいものだった。
呼び掛けに答えない関索を案じるような、穏やかな長兄の声。
安堵から、途端に体の力が抜ける。

「大丈夫か?」

「あ、は、はい、すみません」

心配そうな姿は、おかしなところなど何もない、いつもの優しい長兄だ。
一体何が起きたのか、まだ正常に働いていない頭で考えようとして、しかしそれは具体的な形になる前に霧散した。

「あ、兄上?」

「うん?」

大きな手が関索の頭を撫でる。
時折髪を梳いたり、不意に耳元を擽ったりと、その手つきには慈しみが溢れている。
まるで小さな子供の頃に、そうしてくれていたように。
懐かしいその温もりに、与えられる体温を手放すのが惜しくて、関平の突然の行動を咎めることができない。

「…関索、大きくなったなあ…」

長兄が感慨深げに呟く。

「もう私がいなくても大丈夫なのかもな…」

続けて、こんなことを言って兄失格だな、と苦笑する。
それは昔から関索を見守ってきたからこそ漏れ出た言葉なのだろう。
その響きに関索の胸が詰まる。

「そんなことありません!」

「無理しなくてもいいんだぞ?」

「違います、わ、私は、兄上がいなければ…!」

兄に見放されてしまうことが怖くて、泣きそうになりながら関平に抱きつく。
そんな関索を優しく抱き締め返して、長兄はいつまでも頭を撫で続けてくれた。



「ただいま帰りました」

「ああ、おかえり」

実家の玄関を開けると、ちょうど風呂上りらしく、髪の毛を濡らしたままの次兄が脱衣場から出てくるところだった。
既視感を覚えながらも靴を脱ぎ、上り框に足を掛けたところで、まだ関興がそこに立っていることに気付く。
何かあったのだろうかと戸惑っているうちに、次兄が口を開いた。

「兄上のところに行ったのか」

「え、は、はい」

「話していないな?」

随分と言葉を省いた質問だったが、少し考えて先日の話の続きだと思い至る。

「はい、喧嘩をしたことは話してません」

「…何を話した?」

関索の答えに、関興の表情が少し歪められた。
それに気圧されながらも、正直に答える。

「あの…試合のことを聞かれたので、知り合いができたと言って誤魔化しました」

そういった瞬間、次兄の顔が一層厳しいものになった。
無表情であることが多い次兄が滅多に見せない感情に、びくりと肩が跳ねる。
しかしその表情はすぐに消え、次いで浮かんだのは呆れとも取れるそれだった。
彼の口から吐き出された深い溜め息が、関興の落胆を如実に物語る。

「兄上…?」

「いや…ちゃんと言わなかった俺が悪いのか…」

頭を抱える次兄の苦悩の意味が分からず、関索はただただ困惑するのだった。








エンド







++++++++++

現パロでお題シリーズで平索みたいな。
どっちかというと兄上の方が束縛してるといいなっていう話。