『張遼殿、貴方はまだお若い』

 刑場に向かう前、軍師殿はそう言い残した。呂布殿は既に牢を後にしていて、もう今生で会えぬ事は明白であった。

『天命が貴方を生かされるでしょう』

 軍師は自ら首を差し出して斬られ、主は自らの居城の壁に吊されたのだとは後に知った事であった。












 ――教――













嗚呼、私はいつか追いつくだろうか。
あの漆黒に、あの真紅に。





 北風の強く、静かに切り裂く寒さの中での戦は、昔を思い出す。
 馬上で刃を振りかざす、それさえもまたあの冬から幾年、幾十年経とうとも変わらぬままだった。
 あれからと言うもの、軍師殿の言う通りに私は生き延びた。親交を持っていた関羽殿が偶然にも曹操軍の客将であったのだ。 彼の口添えによって、何の運命の悪戯であろうか、当時はまだ無名であった私だけが曹操軍の将軍として武を奮っている。
 だが、もしかしたら軍師殿は曹操軍にいた関羽殿が、己の助命を請うだろうと分かっていたのかも知れない。

「張将軍、」

 副官が緊張におずおずと呼び掛けてくる。端から見れば険しい眼差しで敵陣を見下ろしているように見えるのだろう。 微動だにせず睨み付けている上官に不安が過ぎったのかも知れない。
 怖じ気づいたか、と。もし旧主が生きていたのなら、きっとそう声を張り上げただろう。男は待つという事を知らない男であった。 ただ、野生の獣のように身を潜める事は出来たのだが。

「…まだ早い。軍師殿は出来る限り敵を山中に入れよ、と言っていたのだ」

 峡谷に進軍した敵を待ち伏せ、逆落としせよとの命。狭い桟道に敵をおびき寄せ、出口と入り口の双方から挟撃するつもりなのだ。
 賊軍は狭い峡谷を隊列を組んで来ている。まだ先頭が峡谷に差し掛かった頃だ。せめて殿軍が足を踏みいらねばなるまい。
 思えば呂布の下に居た頃は、平野が多い中原の東の地を転々としていて、この様な峡谷で待ち伏せることなど終ぞ無かった。
 どの道、白兵戦での正面衝突を好んでいた主では近寄りそうもない場所であった。
 細長い峡谷に差し掛かった軍は、敵に待たれているのも知らず、長細く鈍々と歩を進めている。 今は中詰めの軍が狭い入り口に差し掛かっていた。 糧秣を積んだ荷馬車が、桟道の狭さを気にしながら通っていく。

(…糧秣を奪えとは言われなかった。さてはあれで軍を二分するつもりか)

 白髪交じりの顎髭をさすりながら感嘆する。後方から敵が襲ってきたとしても荷馬車が邪魔で先発隊は後退出来ない。先発隊も後退も出来ず、援軍も期待出来ない。
 将に袋の鼠とはこの事だ。煮るも焼くも軍を率いる私の気一つである。

(ふむ…焼き討ちも良いが風下ではな)

 風は天候の悪化に連れて吹き上げる様な吹き方になった。恐らくは時を待たずして雪になる筈だ。敵兵も雪が降る前に山越えをしたいのだろう、ほんの少しだけ歩みが早くなったようであった。
 間も無く殿軍が入りきる。枚(バイ)を食まされている愛馬も何処か落ち着かない。早くと急かすように頻りに首を振っている。

「直に突入する」

 風が木々をざわめかす。殿(しんがり)が山中に踏みいる。その背が焦らしている様に鈍々と小さくなる。
 まだか。
 と。合図を待つ兵卒達が逸るのが分かる。間もなく枚を外されると知っている賢い馬達がねだるように鼻息を荒げている。
 冷たい北風が、静かな境地はまるであの冬の別離のよう。
 合戦の高揚、馬の嘶き、血の香り。何十年経ようとも、鮮明な記憶。
 一丈、二丈、三丈…隊列は過去に似て自らの前を過ぎ去り、山中に遠ざかっていく。山の中腹から桟道の入り口まで駆け降りるには幾ばくかの時が必要だ。
 予め決めておいた身振りで枚を外させる。兵も馬も迫りくる戦闘に高揚が今にも弾け飛びそうに膨れ、最高潮になりつつあるのが分かる。
 腕を掲げる。あと一声。
 す、と息を吸えば、不意に白い雪がちらついた。前を見据える自分の遥か後ろから重々しく、しかし軽快な駿馬の駆け足が二つ響いてくる。

『文遠!!』

 嘶きを挙げて懐かしい赤い馬体が真横で止まる。その向こうには黒い馬が止まった。 馬の赤いたてがみから恐る恐る視線を上げれば、数十年ぶりの雄々しき漢がニヤリと笑みを浮かべて私を見ていた。

「呂布、殿…」

 それは最期に見た鬼神そのものの姿。漆黒の甲冑も戦化粧と同じ赤い首布も。眼差しも何もかも全て、全てが。

『どうした、文遠。老いぼれて先陣が切れなくなったか。仕方ない、ならば俺が先陣を切ってやろう』

 呆然と目の前の幽鬼か幻惑かを見遣っていると、その人は鋭い一声と共に駆け降りていく。
 殿!! 思わずそう呼んだ。みるみる小さくなる背中は振り向いて一喝する。

『何をもたもたしている! 公台、文遠! 俺に付いてこい! 敵を蹴散らすぞ!』
『もう、殿! ……ああなったら聞かないんだから…』

 苦笑混じりで馬をそっと寄せてきた軍師殿もまた手綱を短く持ち直した。

『仕方ないですね、我らも行きましょうか、張将軍』

 大きな黒い鎧と小柄な赤い鎧。目の前を駈けていく。在りし日のままに。
 あの寒い冬の日に、失ってしまった心の何かが甦る。歓喜だろうか、昂揚だろうか、言葉になどで言い表せぬ熱い感情がこの老いぼれた胸にたぎる。

「征東将軍?」
「我らも討って出るぞ! 我に続けぇェいッッ!!」

 部下の声に我に返る。そうだ、私は追わねばならない。討たねばならない。あの日生き延びた者として。魏軍の将軍、現世の鬼神として。
 彼らの背を追い哮る己が声に全軍が昂揚する。 荒ぶる馬は甲高く嘶き、突き出た木々を逆落とす勢いで踏み折っていく。混乱と恐怖が、沸き起こって伝播する。 沸き起こる悲鳴、放たれる怒号。漸く届いた己の刃が1つ1つそれらを断ち切っていく。
 彼等はもう殿軍の中に消えてしまった。だが悲しみは湧かない。私はいつかきっと追いつくだろう。 砂塵舞う、鉄錆の香る戦場で、こうして私が強さを求めていく限り、彼岸の淵で彼等は待ってくれているのだから。





 誰もいなくなった戦場で独り佇んで、私は尽きぬ夢を見ている。
 ほら言ったでしょう、と貴方が笑い、物好きな奴め、と彼の人が笑っていた。










 終





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 前回の更新から実に2年3か月くらい…何たることでしょう。でもそれが海石の基本性能でした。(進歩してない)
 ちなみにこの間にPS2が壊れ、妄想供給源となっていた三国志llができなくなったという…まだクリアしてないのに。。。(現在進行形)
 
 そして戦場の臨場感を出そうとして一文を短くしたら、ふわふわした感が拭えない文章になってしまったような気が。
 携帯に打ち込んだネタ文章みたいだなー…と思ったら、浪人時代の黒歴史(厨ニ病的な)の文章に近くね?と気づきました。なにこの原点回帰。
 とりあえず、晩年文遠さん(未亡人)萌が分かって頂けたら…いいなと控えめに主張してみます。



残英 ……散り残った花びら。
殉教 ……陳宮さん文遠さんイメージ。
         @海石愛用・角川さまの新字源


                     ikuri  13/01/07