小柄な体躯は赤い鎧に包まれていた。 軍師も所詮文官なのだから、着なくても良かろうに、彼はいつもその背を凛と伸ばして戦場に立っていた。 呂布の軍師、此処に在り。 と、それはまるで戦場に咲く彼岸の華のようであった。 残英 ――眷命―― 「…殿、呂布殿、」 冷たい風が強く地上を嬲嫐り、轟々と音を立てて地に積もる雪を巻き上げている。世界は寒さに白く煙っていた。 それよりも更に白い息を吐きながら、軍師殿が膝を着く主に呼び掛ける。 彼は、共に殉じると訴える己に対して主が曹操に零した言葉を覆させようと、切なく訴えていた。 何度も何度も呼び掛ける内に喉が乾燥し、常は少し高めの声が掠れてしまっていく。 だが、この場にいる誰もが止めはしない。止められやしなかった。 『陳宮だけは助けてやってくれ』、と。 皆、恥を忍んで敵に頭を下げた男にしか彼を止められない事を知っていた。 「…殿…、」 「…賢い貴様が判らん筈は無かろう。貴様の才を生かせるのは俺ではない」 幾度目かの呼びかけで漸く呂布が応えた。それは決して応えではなく決定的な拒絶であった。 視線を合わそうとしない立派な体躯の男は、きつく縄で戒められた今、一回りも小さく見えた。 「殿、殿、どうしてその様なことを仰るのか。私は貴方の軍師でいたいのです。 地位も金も賞賛も…貴方のお側に居られるのなら何も要らないのです。この命だって惜しくはありませぬ」 今度は応えが返らなかった。ただ吹き荒ぶ風だけが女の悲鳴のように啼き、主の紅い輪子を弄んでいる。 「それとも私はもう必要ないのですか? やはり役立たずでしかないのでしょうか? 『次』の戦ではとうとう新たな軍師をお立てになるのですか?」 凍てつく下ヒの寒さにか、主に拒絶される悲しみにか、震える声で訴える軍師の声に主は否定も肯定もしなかった。 否定など出来る筈もない。嘗て主は、無策で、後先など考えず欲求のままに渡り歩いて来た男であった。 それを軍師殿が曹操を裏切ってまで迎え入れたばかりか、 内政でも外征でも戦場を駆ける主が不自由ないようにと一切を処理してきたのだ。 その功績に如何報えようか。 ただ今の主に出来た事は、少し俯いて…陳宮殿の姿を閉め出すこと位であった。 呂布殿が軍師殿を拒絶し否定する事が、軍師殿を世に生かすたった一つの手であるのだから。 だから彼らしくもなく、観念したように大人しく首を垂れているのだろう。 項垂れたようにも見えるその姿は、早く首を落としてくれと言わんばかりにも思えた。 「…嫌です、嫌です! 呂布殿の隣には私がいたいのです。どうか見捨てるような真似はして下さいますな!」 「黙らぬか! 殿の御前であるぞ!」 「ッ、ぐ…!?」 「軍師殿!!」 陳宮殿の頭が地に叩きつけられて悲痛な叫びは容赦なく遮られた。 首(こうべ)を再び上げられぬよう、両脇の兵士の槍が首の後ろを交差し、鋭い穂先を半ばまで沈めて戒めている。 彼の頬は今や土が混じった雪の中に埋もれ、白い面差しを汚していた。 主は為す術も無く、それを静かに見つめていた。憐れむように、愛おしむように。 公台、とでも呼び掛けたのだろうか。声無く唇を動かした男は、やがて小さく呟いた。 「…馬鹿が、貴様には年老いた母もいよう」 呂布殿が言った言葉に我が耳を疑った。 軍師殿に老母がまだ在る…寧ろ血縁がいたなどと初めて聞いたからだ。 軍師殿は城下に邸を構えてはいても妻や親族を迎えている訳でもなく、書の遣り取りもそう言った噂自体も皆無であったから、 軍師殿は天涯孤独なのだと思っていた。 それは誰しもそう思っていた筈で、見れば高順殿も初めて聞いたらしく、目を見張って驚きの表情を浮かべている程であった。 だのに何故、呂布殿が知っているのだろうか。彼らの繋がりは想像していた以上に強かったのかも知れない。 「心配は無用です。曹操も犬畜生でなく、一応は上に立つ者でございます。まさかみだりに老母を手に掛けますまい」 軍師殿は常の皮肉げな口調で毅然と言い返した。 安い挑発のような物言いは視界の片隅で小柄な男の苦笑と隻眼の男の睨みになって返ってきた。 打ち据えようとしてか、一歩踏み出した隻眼を曹操は拳で鎧を叩く事で止めさせ、 軍師殿を抑えつける兵に手振りで退かせた。 けれど、軍師殿にはどうでもよい遣り取りだと言わんばかりに何ら気にする事はなく、呂布殿をただ見つめている。 彼にはもう、主しか見えない…否、主以外はどうでも良いのだろう。 「…第一、貴方以上に手の掛かって人を心配させる人などおりませぬよ…それこそ、初めて会った時から」 「…この馬鹿が。あの世だろうと何だろうと苦労ばかりで何の得も無い事は、…」 言葉を遮るように再び、轟、と北風が雪を舞いあげた。 凍えた風に唇を戦慄かせた陳宮殿は、見ていられなくなった様子で再び俯いた主へと、それでもずっと視線を遣っていた。 愛おしまんばかりの眼差しで、薄暗いこの下ヒの中で眩そうに目を眇めて。 「…俺と違って賢しいお前が分からぬ筈がなかろう…」 「ええ、ええ分かりますとも。貴方に付いて行くよりも、曹操に仕えた方が安泰な事位…」 身を竦めた呂布に彼はくすくすと笑った。断罪の場には不釣り合いなその笑いは何処か艶めいてさえ聞こえた。 「でも貴方が馬鹿なぞ今更、苦労だって今更です。そんな覚悟が無くば今日まで殿にはお仕えしておりませんでした」 彼は懐かしそうに灰色の空を見上げた。 そこには、曇天があるだけで何もない。だが、彼には確かに何かが見えているのだろう。 その眼差しは、いつか城壁の上で夢を語った時の様な色をしていたのだから。 「何せ貴方は馬鹿で粗暴で悪名高くて私の軍略など聴きもせず向こう見ずに突っ込んで行くのですから」 軍師殿はすらすらと主を罵った。だが嘲る響きは無かった。出来の悪い子を窘めるような響きであった。 それでも許していたのだと。 それでも愛していたのだと。 頑是無い子供でさえ解るだろう分かり易さで。 「でも不思議な事に後悔はしていないのですよ。あんなに忙しくて、あんなに怒り散らして。 楽なんか一度だってさせて貰えなかったのに、それでも貴方の軍師だったあの日々は眩い程に充実していたのですから。 可笑しいですよね…」 雪を孕んだ冷たい北風が刃のように肌を刺す。冬の嵐でも来るのか益々強くなる風は篝火をかき消さんばかりに強く揺らした。 敗将に残された時間は、もうない。寛容にも与えられた主従としての最期の時は、この凍てつく寒さに断ち切られてしまう。 呂布殿、と軍師殿が静かに呼ばう。彼もまたその事をよく分かっていた。 「…私もお連れ下さいませ」 哀願さえ感じられる声。それは最後の嘆願になる筈だ。 この場に居る者が固唾を飲んで見守る中、うなだれていた呂布殿が緩慢に顔を上げた。その眼差しは決意を浮かべていた。 「……貴様は馬鹿だ。……お前のような馬鹿は拾い手がなかろう」 「…呂布殿、」 「俺に付いて来い」 にこ、と陳宮殿が会心の笑みを見せた。 処刑が決まった瞬間だと言うのに、赤い甲冑に包まれた胸を張り、如何にも誇らしいと言わんばかりに堂々たる姿で笑っていた。 逆に陳宮殿を臣下に戻したがっていた曹操の方が沈痛な面持ちで彼らを見下ろしていた。 「ええ、この陳宮、喜んでお供致しましょう。 現世は鬼神には狭うございます。果てなき泉下でその力を存分に発揮なされませ。今度こそ宿願を叶えましょうぞ」 応えた声の何と甘かった事か。 雪のちらつく下ヒに、それは春に匂う一輪が在るようだった。 終 - - - - - - - - - - - - - - 1年ぶりの更新となりました残英続編です。(あと一部はまだ骨格しか書いてないという…/遅筆過ぎる) その間に大分陳宮殿にフィルターがかかってしまった感じです。 呂布殿が軍略を無視しても、高順と仲悪くても、苦労ばっかりでもそれでも呂布殿に付いて行く…健気ですよね。 陳宮を忠義に溢れた〜という表現をしている書物はあまり無いのですが、ある意味忠義の行いだと思います。 陳宮可愛いよ陳宮! あと、陳宮が赤い鎧を着ているのは、コエ三国志llの影響で。 武力が55しかない文官だと一騎打ちムービーでは大抵官服なんですが、何故か陳宮は全身赤い鎧なのが萌。 きっと武官しかいない呂布軍にいたからだと(勝手に)思うと、異様に可愛く見えてきます。 因みに一騎打ちでは、武力差が10あると一騎打ち開始前に負けたりしますが、 武力100の張飛と一騎打ちしても耐え抜いちゃうのが陳宮です。(萌) 武力差7の周泰なんて一騎打ち前に負けたのにもう陳宮ったら…(何) 因みに文官にしては高い武力の仲達氏(67位)は官服、陸遜(70前半)は鎧。 一桁〜20台の荀ケ(いく)、荀攸、郭嘉…は官服。 でも何故か歩鷺(55位)は鎧です。あ、文官ではないですが丕様(72位)は白銀の鎧です。 残英 ……散り残った花びら。 眷命 ……慈しんで命令を下す @海石愛用・角川さまの新字源 ikuri 10/09/26 戻 |