泡沫に夢追い、或いは殉じ。君よ散るなと愚者は啼く。












 ――景――












「現世の…泡沫の夢はなんと儚い事でしょうか。 群雄が割拠し、各々夢を追う…この戦乱が始まって幾ばくもしない内から夢は端から潰えていっております」

 さてあれはいつの日の事であったのか。 城の高台で偶々だっただろうか、今となっては思い出せはしないけれども、 兎に角何故か共に城下を見下ろしていた軍師殿はとつとつとそう語った。

「儚い夢とは言え…夢を追うのは気力がいるものです。それが壮大な夢ならば尚更に。 ……潰えたとき、二度と夢など抱けなくなる」

 そう言った軍師殿の眼が、赤い馬に乗った漆黒の甲冑を追う。 目の眩む様な蒼天の下、どれだけ遠く離れていようとも、只人ならぬ存在感を醸し出すその男は、 紛れもない乱世無双の武将であり、軍師殿の壮大な夢を具現化した者である。 苦笑を滲ませた眼差しは羨望と至福に満ち、普段は冷めた理性の光ばかりを浮かべる男を、夢に駆ける一人の愚かな男に見せていた。
 しかしその愚かな男の何と満ち足りている事か。 相次ぐ戦、追われ根無し草の如く流浪する日々、武官との軋轢、それらの苦労が積み重なり、 窶れてはいたけれども、初めて見えたときよりも生き生きとしている。 当時、王佐の才を持つとまで噂された名士であった軍師は、曹操の幕閣として何不自由ない生活と地位、 実力を発揮できる場が与えられていたというのに、その時よりも瞳は輝き言葉は熱い。

 ……因果なことだ。

 沈みゆく軍にしか彼の輝ける場がないなど…命を賭けさせるなどと、天命は残酷である。

「しかし張遼殿、貴方はまだお若い。貴方でしたら夢が潰えてしまったとしても新たな夢に生きる事が叶いましょう」

 いつの頃からであろうか。軍師殿は最期を口にするようになった。
 大軍が迫る。乱世無双の英雄を喰らいに来る。
 それは決まっていることである。 数多の裏切りの歴史を刻んできた軍の、予想できた顛末であった。
 だから軍師殿は最期を口にする。 訪れる未来にきっと差し出される旧主の手を振り払い、裏切りの果てで朽ちることを決めている。

「私はもう年ですから、この夢が潰えるならば、次を追う事など出来はしませぬでしょうな」

 風の噂で聞いたに過ぎないが、曹操は才を何よりも愛するらしい。 それはまるで野に無数に咲き乱れる花々を愛でるが如き愛し方であり、その愛の及ぶのには限りがないと人は言う。
 嘗ての軍師殿は、曹操の認める能吏であった。信頼は深く、共に寝起きすらする程であったと風の噂で聞いた。
 何故、彼が主の元を裏切りと言う形で去ったかは分からない。 恐らくは誰も知らないだろう。
 しかし、これだけは私にも分かる。軍師殿はきっと、曹操の傍らで昔のように咲く事を許されるであろう。 そして彼はおそらく望むまい、とも。
 ただ一輪の華として愛でられる至上の喜びを味わった後で、 幾十幾百の中の一輪になる位ならば、色鮮やかな花弁を自ら惜しげもなく枯らす方を選ぶだろう。
 嗚呼、その御心はこれ以上ない位に判る。 だがそれは彼の有能さを想えば何とも勿体無く、惜しい事である。

「…貴殿はまだお若い」

 喉元に何か蟠っているような気がして、不覚にも少し声が低くなってしまった。 その時、強く強く風が吹いて違和感をほんの少し掻き消していった。 陳宮殿は、風でよく聞こえなかったらしく、『張遼殿?』と不思議そうに小首を傾げて此方を見上げた。 その無防備で歳よりも幼く見える姿に、貴殿はまだお若い、と繰り返した。

「ああ、何かと思えば……ふ、ふ、若いなど、久しく言われておりませぬなぁ」
「そうですか?」

 一瞬だけ目を瞠った彼はくすくすと笑った。 私が素直に首を傾げて見せると余計にころころと笑った。挙げ句、『張遼殿は冗談がお上手だ』と言う始末である。
 だが、冗談など当然言ったつもりもないので少々複雑な気分になる。 彼は官吏出身で四十路を迎えて久しいのに、未だに馬を巧みに扱い、弓の腕も並の武将に勝る。 主程では無いものの剛毅な性質であったから、並の武将相手では一騎打ちさせても気迫で負けもしなければ、 何合打ち合っても食らいついてくる。
 そして、何よりもその顔だ。少年のように生き生きとした眼差しをしているのだから。 それでいて、もう歳だと言われたら信じ難いのも致し方ないだろう。

「だって張将軍、先日も殿に年を食ったなと言われたばかりなのですよ? 肌に潤いが無くなったって」

 散々楽しんだ後に酷いと思いません?
 と、彼は冗談混じりに少し惚気た。 色事を生々しく連想させる冗談をあまり彼から聞いた事が無かったから随分奇妙な心地がした。 だがあまりにもさらりと言われたせいか、はたまた彼自身の清廉な気質からか……生臭くて下世話な話には全く聞こえなかった。 寧ろ長く連れ合った夫婦の他愛もなく微笑ましい仲を自慢されているような心地さえした。

「張将軍、」
「はい」
「貴方は、お若い」

 彼はまた城外に視線を転じた。
 草原を駆ける主を認めて、大地の色をした瞳を眩そうに瞬きをした。

「……逆に、私は老い、そして臆病になってしまったのです。 ですから私は、潰えてしまう位なら永久に尽きぬ夢を見ていたいと思っております」
「『永久』に?」
「『永久に』、ですよ。張将軍」

 前を向いたままで、にこり、とまた軍師が微笑んだ。 その目元には小さな皺が見える。見慣れぬそれはここ最近で増えたものであった。
 人は年を取り、死んでいくのだ。永遠に続いたものなど何一つない。 例えば400年続いた王朝さえも今、為す術無く終わろうとしているのだから。

「………軍師殿らしくはございませんな」
「ふふ、そうでしょうか?」
「そうです。永久などあり得ぬ物を口にするとは。斯様な夢物語は子供と金持ちと宗教家しか信じませぬぞ」

 貴殿はそのどれでも在りますまい、と忠告にも皮肉めいた言葉にも聞こえる言葉にも、彼は気分を害する事はなかった。 ただ此方を見て、眼を細めるだけであった。 彼は私よりも年上で賢いから、武一辺倒の若武者の愚かさでさえ微笑ましく思えたのだろうか。

「…嗚呼、全くもって貴殿はお若いですな…」

 私の声を否定するように、風がまた荒々しく吹いた。
 そしてまた聞こえなかったのだろう、軍師殿の唇は微笑のまま動く事はなかった。 けれど、風に乗って『本当に張将軍は冗談がお上手だ』と、あの時の私には聞こえたような気がしたのだった。











 終





- - - - - - - - - - - - - -
 久々の呂陳+遼風味でお送りしました。
呂布殿にベタ惚れ陳宮と現実主義者ぽい文遠殿で正三角形になってしまった感じです。
若干三国志llの影響が入ってるので、結構年上陳宮です。
陳宮殿は40代かつ呂布殿より2歳年上。
脳内ビジュアルもやっぱり愛くるしい顔立ちの三国志llイメージで!
多分、また性懲りも無く続くのではないだろうかと思われます。


残英 ……散り残った花びら。
流景 ……落日の景色。(落日=呂布軍の終焉イメージ)
         @海石愛用・角川さまの新字源

                     ikuri  09/10/12(体育の日振り替え!)